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第4話

「桔平先生、わざわざありがとうございます。」 表向きの表情で、杏介の母が俺を玄関で出迎える。 いつぞやのホールで、父親が佇んで俺の様子を見ている。 「初めまして、杏介君と桃李君のピアノを指導しています。」 自己紹介もほどほどに、彼らの父は、ソファに座ると手に持ったワインをグラスに注いで俺によこした。 「どうぞ…」 杏介によく似た雰囲気の大人… 桃李に似た癖のある髪の毛は長めで、目が隠れて表情が読めない。 眼鏡をかけているが、インテリとは違う…世離れした教授の様な雰囲気だ。 これは、モテるだろうな… 男の勘でそう思った。 杏介を見ると、この前の動揺が嘘みたいに、平気な顔をして笑っている。 隣の桃李に至っては、俺に視線もくれないで兄と談笑をしている。 この家では…何が本当で何が嘘か…分からなくなるな… 「じゃあ、杏介からお父さんに弾いてあげましょうか…」 女王の掛け声と同時に地獄のピアノが始まる。 「お父さん…何を聞きたいですか?」 父の前に来て、杏介が尋ねる。 ワインを揺らしながら、ぼんやりと杏介を見る父親は、本当に家庭を持つ父親なのか…この子の、父親なのか…と疑ってしまう程に、他人の様な顔で彼を見て、言った。 「お前は何が弾けるというの?」 杏介の鉄の笑顔にヒビが入る音がした… 「杏介君のバッハは聴き応えがあると思いますよ。彼はバッハの特徴をよく捉えて演奏できる、繊細な表現力を持っています。」 あまりに酷いので俺はそう言って杏介をフォローした。 何が弾けるというの?だと? ふざけている。 それが息子にかける言葉なのか… 彼のプレッシャー、鬱屈した思いの発端は間違いなく、あんただ。 「杏介、バッハの平均律クラヴィーア曲集1巻の3番を弾いてあげなさい。君はこれが上手に弾けるだろう?」 杏介はヒビの入った笑顔を付けたまま、俺に頷いて、ピアノの方に向かう。 いたたまれないな… 桃李が俺と父親の間に腰かける様にするので、俺は少し退いて彼を座らせた。 隣の彼は、あの冷血漢の父親の手を握って、しなだれて、微笑みかけている。 それが、お前が生きていくために、取った手段なんだな… 自分によく似た髪質の桃李の髪を手のひらで分けて、愛おしそうに見つめる目は、さっき杏介に向けていた目とは明らかに違って見えた。 一体俺は何を見せられているんだ…? すると、杏介がピアノの1音を出して、固まってしまう。 体が震えて先をうまく弾けないのだ… 俺はいたたまれなくなって、彼の隣に行くと、一緒に弾いてやった。 「大丈夫だ。落ち着いて弾けば良いだけだ。」 そう言って、彼の方を見下ろすと、先ほどまでの笑顔の仮面は脆く崩れて、今にも逃げ出したい。そんな気持ちが滲んで見える程の歪んだ表情でピアノを弾いていた。 可哀そうに… 俺は普段のレッスンの時の様に、彼の傍で、彼の様子を見守りながら演奏を聞いた。 「上手だったよ。」 曲を弾き終えた杏介に、誰よりも先に誉め言葉を与える。 こんな仕打ち、俺が受けたら…こうして欲しいに決まっているからだ。 この後、桃李が弾くんだ…それは恐ろしいよな… 杏介はピアノから離れると、父親の隣へは行かずに母親の隣に座った。 まぁ、そうだよな… 俺はソファに戻ると、桃李と父親のやり取りを静かに見た。 桃李の両手を掴んで、愛おしそうに頬に当てる親父と、それを笑顔で見つめる桃李… お前の母親が死んだ理由は…愛情が自分じゃなく、息子のお前に向かっていると…分かったからなのかな… 「桃李…俺に聞かせたい曲を弾いてくれ…」 杏介の父親は、懇願する様に彼に言うと、手を放して彼を解放した。 「先生、あの子は神童なんです。本当に、彼の弾くピアノは普通じゃない…。繊細で、大胆で…官能的だ。彼の演奏を聞いたら、普通のピアノなんて、味のしない料理と同じで、退屈でつまらないものにしか思えなくなる。」 饒舌に俺に語って、桃李を褒めちぎると、ピアノに座る彼に熱い視線を送る。 これは…この放蕩親父は… 桃李に絶対手を出している… この視線…普通の親子関係じゃあこんな視線は子供に贈らない。 父親と関係があるなんて…彼から聞いた事が無いのは、隠しておきたい事だからだろう… それがお前の処世術なのか…悲しいな あんなに…俺の事を、誰とでも寝るなんて…言っていたのに… 軽蔑するよ… 桃李はピアノに向かって、俺の方を見た。 どうして隣に来ないのかと言った顔で俺を見る。 お前は1人でも弾けるじゃないか… 誰よりも上手に、誰よりもこの男を魅了して… 俺は彼から視線を外して、母の傍らで怯える杏介を見た。 しばらく沈黙が続いたのち、ピアノの音が鳴って彼が弾き始めた事を知る。 まるでピアニストの様に、上手にショパンの練習曲を弾いていく。 杏介が顔を伏せて呻くように泣いているのが見える。 そうなんだ、圧倒的な完成度…こんなものを聞かされたら、打ちのめされるだろう… 自分のセンスの無さと、才能の前では凡人の努力は無駄だという事を…嫌でも耳に入ってきて思い知らされるんだからな。 いくらあがいても、彼の様には絶対弾けない… 弾く前から分かっていた事なのに…この音を聞いて…彼の演奏を聞いて… 心動かされながら、じわじわと殺されていくような…そんな気持ちになるだろう… 桃李…それがお前が親父に聞かせたい曲なの…? 陳腐だ。 それが、お前の親父への気持ちなの? 抱かれてるんだろ… この世捨て人の様な、家庭的じゃない、あちこちに女を作って孕ませる、クズみたいなやつに…抱かれているんだろ? 俺じゃないこいつに… ムカつくよ、桃李…お前の処世術なのかもしれないが、そんな事までして…この家にいる意味なんてないだろ…俺の所に来ればいいだけだろ? 言えばよかったじゃないか…親父に悪戯されている。家を出たい。助けてくれって…俺に言えばよかったじゃないか…なぜ黙っていたんだ…なぜ、俺の前でこんな奴に媚びを売るんだ…なぜ、俺がお前の隣に行くと思ったんだ…! お前の事を愛していたのに…一気に気持ちが凍っていくようだ。 彼の演奏が終わって、父親は感嘆の声を上げて彼に近付いていく。 ピアノに座ったまま、父親の抱擁を受けて…あいつの背中に俺にすると同じように…手を回して… 軽蔑するよ… お前たちは我慢している方だったんだな… こんな扱いを受けても、桃李を受け入れて…我慢している方だったんだな…。 知らなかったよ。この子が…ここまで悪魔の様だとは… 「先生も何か弾かれますか?」 不屈の女王が、今では痛々しい傷ついた未亡人にさえ見えてくる。 「では…」 俺はそう言って桃李と入れ替わる様にピアノに座る。 彼の手が俺の腰を掠めるのを感じて、嫌悪感が生まれる。 俺の宝物だったのに… 桃李…なんだか、酷く裏切られた気持ちだよ… 俺は彼に視線もくれず、ピアノを弾く。 ショパンの別れの曲。 あんなに熱を上げたのに…あんなに愛したのに…一生傍に居ると、思ったのに… こんなに簡単に思いは逆転してしまうんだ… お前がその男と寝ていると思っただけで、簡単に冷めてしまうんだ… 俺を薄情だと思うか…桃李。 薄情なのはお前じゃないか… 親父の事も、何をされているかも、俺に言わないで… 本当はお前もまんざらじゃないんだろ… 杏介やその母親をあざ笑うかのように、この親父に媚びを売るお前なんて、見たくなかった…見たくなかったよ… 悲しい… 演奏を終えて、本格的に桃李が親父のジュークボックスとなる。 杏介と母親の冷めた空気とは真逆に、桃李とピアノの傍に親父が張り付いて、彼を独占する。 他の人など見えていない親父は、久しぶりに愛しい人にでもあったように愛でて、嬉しそうに慈しむ声で彼に話しかける。 こんなの狂っているね… 俺は早々に杏介と母親に挨拶を澄ませると、彼の居る魔宮殿を後にする。 どうせ、今晩、抱かれるんだろう… 何回も何回も…あの親父に抱かれるんだろう… はらわたが煮えくり返る位、ムカついて来る… 俺の愛したものが平気で汚されるんだ…ムカつかない訳無いだろ… 誰かをぶん殴りたい…誰かにぶん殴られたい…! 自暴自棄になって、このままどこかに行って死んでしまいたい。 桃李が許せない。 あの子は…生きるためにそうするしかなかったのに… どうしても許せなくて、怒りが納まらない…  自宅に戻って、ピアノの部屋に行く。 彼の座った椅子を蹴飛ばして、彼に用意したお菓子を全て捨てる。 悔しくて仕方がない… 彼の座ったソファを持ち上げて、部屋の外に出してそのまま家の外に出す。 彼の好きなショパンの楽譜を全て奥にしまって、封印する。 強い酒を飲んで、意識が無くなるまで、何も考えなくなるまで煽って飲み続ける。 涙がこぼれてきて、嗚咽が漏れて、酒の味も分からないくらい泥酔する。 1人床に突っ伏して涙を流しながら、目を回してもがいて苦しむ。 「桃李…酷いよ…お前の事を愛していたのに…」 何がショックだったの…? 彼が親父と寝ていると直感で分かったことがショックだったの? 俺の隣で、そいつとイチャついた事がショックだったの? 杏介と、桃李の露骨な扱いの差を見た事がショックだったの? いや…当然の様に…俺が彼の隣に座ることを…求めた事がムカついたんだ… お前を抱く奴の機嫌を取るために、俺を利用しようとしたことが…ムカついた。 あんな奴の為に弾くピアノに、俺を同行させようとした事がムカついた… 嫉妬だ。 激しい嫉妬だ… 俺は着る物もそのままで、寝室に向かうとベッドに突っ伏して寝た。 今頃、どうせ抱かれているんだ… 俺以外の男に… 悲しいよ…桃李。 酷いじゃないか…桃李。 こんなに愛しているのに… 桃李のピアノのレッスン。 彼はいつもの様に学校帰りの格好で部屋に入ってくる。 俺にブレザーを預けて、体に抱きついて来る。 あの男に抱かれた体で… 「やめて…」 手で彼の体を押し退けて、言葉で彼の心を傷つける。 「…桔平…どうした?」 俺に拒絶されて、驚いた顔の彼を見下ろす。 硬い表情の俺に、少し傷ついた色を浮かべた瞳で、俺を見上げる。 俺はその何倍にも傷ついたんだ… 「もう、君とはそういう事はしない…」 そう言って、ピアノの方に行くと、彼の方を見てピアノの椅子に促した。 「早く座りなさい。」 状況が理解できない顔で、立ち尽くした彼を冷たく見放して、彼を傷つける。 「…きっぺい…何か怒っているのか…」 俺の目を見ながら、怖がりながらも、真摯に聞いてくる姿勢に心が打たれる… ダメだ、絆されるなよ…その子は悪魔だ。 「先生と呼びなさい。君とはもうこれ以上親しくはならないよ。」 無くなったソファを見て、俺の態度にショックを受けて、彼の瞳から涙が落ちる。 「…ど、して…」 下を向いてそう呟く彼の体が小刻みに震えている。 可愛い姿で俺を騙して…既にお前には絶対裏切らないパトロンが居たじゃないか… 「愛してるって…言ったじゃないか…」 その震える声も、お前の小さな体が震えていても…もう俺の目には映らないんだ。 母親を自殺に追い込んだような相手と、そんな事が出来るなんて… 本当に軽蔑するよ… 「桃李、俺を誰だと思ってるの?誰とでも寝る男だよ?お前だって…そうじゃないか…俺の事を言えない。父親と寝るなんて…俺よりも悪質だ。」 笑ってそう言って、彼をピアノの椅子に促す。 目からポロポロと涙を落として…膝から崩れ落ちて…両手を顔にあてて、声を出して泣く彼を見て、自分の怒りを…嫉妬を…行為を激しく後悔した…。 もうお終いだ… 大切な宝物を自分で叩き壊した。 もう後戻りなんて出来ない。 壊れてしまったものは、元には戻らないから。 「ちゃんと楽譜を読む努力をしなさい。なんでも特別にされるなんて思うな。」 ピアノに指を置いたまま泣きじゃくる彼に、追い打ちをかける様に傷つける。 与えられる自分へのダメ出しと言うよりも、俺が彼を責める行為に、傷ついている様だった…。 「…きっぺい…きっぺい…嫌だ…」 泣きながら項垂れる首筋に、彼を感じて心が痛くなる。 この人を傷つけて…俺は一体、何がしたいんだ… まだ15歳の子供が…生きるために努力しただけじゃないか… 俺の怒りはこの子に向ける物なのか…違うだろ… 分かってる。 分かってるけど… ひどく悲しくて…彼を傷つけてしまう… 「桔平もボクの事が嫌いになった…お母さんもボクの事が嫌いになった…父さんがボクの体を求めているって…なぜ、そう思うんだ。あの人は狂ってるんだ。ただ、ボクの弾くピアノに拘って…お母さんを苦しめた。ボクを軽蔑するなら勝手にすればいい…もう、もう…うんざりだ…この崖から突き落とされるような…こんな事…もう、うんざりなんだ…」 そう言って、ピアノから退くと、ハンガーにかけたブレザーに手を伸ばした。 俺はその後姿を捉えて、自分の方に向かせる。 「まだレッスンが終わっていないのに…どうして勝手な行動をするの?」 俺の形相が怖いの…? 俺の顔を見て君はひどく悲しそうな顔をする。 「…きっぺい…止めてくれ…頼むから…これじゃ…お母さんと同じじゃないか…」 そう言って俺の体に抱きつくと、声を上げて泣きだした。 「こんな事になるなら…弾かなければよかった…初めから、触らなければよかった…全部、ボクが悪いの…?桔平…全部…ボクのせいなの…?」 オレの頬を掴んで、必死に聞いて来る彼の顔を見れなくて、視線を外す。 「お前が好きだったんだ…いつもボクに声を掛けてくれるお前が好きだった…つまらなそうにしても、嫌な事を言っても、構ってくれる、許してくれるお前が…好きだったんだ…ずっと、ずっと前から…。お願いだよ…ボクにそんな顔しないで…今にも死んでしまいそうだ…」 俺の体を抱きしめて、悲しい声で話して、縋りつく彼を俺はただ黙って見つめる。 「一生愛してくれるって…言ったじゃないか…!」 そう言って慟哭する様に激しく泣いて、俺の体を揺さぶって、桃李が訴えてくる。 俺は……どうしたら良いのか分からない… 自分が犯した行為がどれほど彼を傷つけたのか、考えたら何も言えなくなる。 抱きしめることも、微笑むことも、目を見る事さえ出来ないで放心する。 このまま大切な人とお別れするのか… 一時の嫉妬心で…彼を傷つけておいて、怖くなって逃げだすのか… 「お前がボクを要らないと言うなら…ボクもボクが要らない…大嫌いだ。」 そう言って、俺の腕を振りほどくと、彼は玄関に向かって家を出て行った。 残された俺は、ただ彼の残像を感じて放心する。 すぐにでも追いかけた方が良いのは分かっていた。 でも、そうしなかった。 理由は分からない…敢えて言うなら、自信が無かった… 彼の…桃李の望む言葉が口から出せる自信が無かった… 今の自分はドロドロのヘドロの様に汚くて、彼を更に苦しめかねないから… 後を追いかけることが出来なかった… 次のレッスンに彼は現れなかった… 心配になって自宅に電話をすると、レッスンに向かったと言われる。 いてもたってもいられなくなって、玄関に向かうと、向こうから彼が歩いて来るのが見えた。 「…遅かったから心配したぞ。」 近くまで来た彼にそう言うと、俺を一瞥して視線を外した。 せっかく繋いだ手を俺が振りほどいたんだ… 今日の彼は学校帰りの姿ではなく、お坊ちゃんの姿の彼だった。 そうやって、俺との決別を果たすんだね… ピアノの部屋に入って、彼に声を掛ける。 「では、この前の続きをしようか…」 そう言って彼の楽譜を見る。 音符の全てに音階が掛かれた楽譜に言葉を失って、固まる俺をよそに、彼はベートーベンの悲愴第二楽章を最後まで弾いた。 こうなる前のレッスンで…俺が数回だけ、弾いて見せた悲愴。 それをもう覚えたの? それとも…この必死に書かれた音階でソルフェージュして、弾いたの? 甘えたくなかったの? 俺に聞きたくなかったの? 胸が痛くなって、彼の髪の毛を見る。 ふわふわの柔らかい、彼の髪… 触れたくなって、手を伸ばして止める。 「細かい改善点をいくつか…」 そう言って、彼の楽譜を広げて、鉛筆で加筆する。 間違っている音階もついでに直して、“メロディーの音を強く”と“だんだん弱く”と“はずむように”と書いた。 それを彼に手渡すと、一通り目を通した後、何も言わずに弾き始める。 俺の直した音階の部分だけ、間違ったまま弾いて…他は完璧に…弾いた。 「何回か弾いてみて…」 そう言って、彼から離れて壁にもたれながら、彼のピアノを聴く。 まるで他人の様だな…俺達。 そうしたのは俺。そう望んだのは俺。彼の細い後姿を見て、彼の背中を見て、彼のゆったりと流れる腕を見て…もう戻ってはいけないと思った… これで良いんだ… あんなに心乱されるなんて…俺がどうかしていたんだ…このまま普通の関係に戻ればいい。そして、普通に時期が来たらお別れすればいい。 普通の生徒の様に、すればいいんだ。 彼のピアノの音はまるで色を失って、悲しい音にしか聴こえなくなった… それが悲愴とマッチして、より悲しげな曲に仕上がる。 暗譜する能力だけじゃない…杏介の父親が言う様に…彼のピアノを一度聞くと普通の演奏はつまらないと感じる程の表現力を持っている。 情景が浮かぶような…ドラマティックな表現力だ… 「とても、良いね…」 俺は彼にそう言って、ベートーベンの新しい楽譜を渡す。 「次はこれを弾いてみよう。これは悲愴の第1楽章だ。一度、弾いてみよう…」 俺はそう言って、桃李の隣に座ると鍵盤に指を置いて、悲愴の第1楽章を弾いた。 弾いていて笑えて来る…まるで俺の気持ちみたいな曲調… 情緒不安定みたいに躁鬱を繰り返して、激しくなったかと思うと、突然繊細になって…また激しくなって、ただ大きな音を出して…沈んで落ちていく… そんな曲調に自分の心情を重ねて、声を出して笑った。 彼は楽譜に目を落としながら、俺の笑い声を無言で聞いている… もう、元には戻れないんだ…俺がそうしたから…彼は心を閉ざした。 もうあの愛くるしい目で俺を見ることは無いだろう… 俺がそれを望んだから… 曲を弾き終わると、彼は曲の中に出てくる幾つかのフレーズを弾いた。 そこが気に入ったのだろうか…今となっては聞いても答えてははくれないだろう… 「まずはここまで、練習してみよう。」 普通のピアノレッスンで彼にピアノを教える… 彼の方法ではなく…俺の方法で…回りくどく教える。 彼はそれを無言で受けて、俺の指示に従って弾いていく。 もう俺にはお前の気持ちは話さないんだね… ただ、言われたことを素直に聞いて…この時間をやり過ごすんだね…。 桃李… 「どこまで覚えた?」 譜読みをさせて、彼に尋ねる。 彼は楽譜なんて読めないのに… 俺の言葉に答える様に、彼は無言でピアノを弾き始めた。 大体全体の三分の二… たった一回、聴いただけなのに…。もう三分の二も弾けるようになっている…。 「凄いな…」 素直に感嘆の言葉がこぼれる。 これが初見の曲を覚えるスピードなのか… それとも、早く終わりたくて…集中しているの? 俺と一緒に居たくないんだろう…桃李。 俺は…お前を傷つけても…一緒に居たいよ。 「これに…前覚えた悲愴の第2楽章が続くんだ…激情だろ…」 そう言って彼を見つめる。 桃李は表情を変えずに俺を見返すと、黙って楽譜に視線を移した。 桃李…俺の名前を呼んでくれよ… 自分で傷つけた癖に…もう彼に縋り始める。 もう取り返しのつかない所まで、彼を傷つけたのに… あの時、追いかけもしなかった癖に… 彼の笑顔が見たくてたまらなくなる… 彼に会いたくて、泣いた日もあるのに…なぜ、あんなに追い詰めたのか… なぜ、勝手に父親との関係を疑ったのか… なぜ…彼を一方的に責めたのか… 今更考えても仕方が無いのに。 その時、激情に流されて、彼を傷つけて虐めたのは自分なのに… ピンポン チャイムの音に我に返って時計を確認する。 レッスンが終わる時刻に彼のお迎えが来たようだ。 桃李が帰り支度を初めて、俺に一礼すると扉を開けて部屋から出て行く。 彼の後姿を目で追って、急いで玄関まで行く。 既に彼は玄関を出て行った後で、ゆっくりとしまる玄関の扉だけが映る。 桃李… 俺の名前を呼んでくれよ… 桔平って…呼んでくれよ… 彼の立ち去った玄関を見て、放心する。 杏介が回復したので今日からレッスンを再開した。 彼は俺に挨拶をすると、言った。 「先生…この前はありがとうございました…。もう、僕の事なんてどうでも良いと思っていました。あんなに優しくしてもらって…父に僕の事を伝えてもらえて…嬉しかった。」 「生徒として、君には長けた部分がある事を伝えただけだよ…」 勘違いするな…あの時、俺はお前の親父に敵対心が半端なかったんだ…。 杏介は俺の言葉を聞いて、自嘲気味に笑って言った。 「父はフランスに戻ります。桃李を連れて行くそうです。あいつを向こうの学校に入れて、本格的にピアノを習わせるようです。先生とはお終いですね。残ったのは、どうでも良い僕だけです。可哀そうな先生…」 頭の中が真っ白になった。 杏介の顔を見て、固まってしまった。 どういうことだ?どういうことだよ? 「そんな話…」 「えっ…桃李から聞いてませんか?おかしいな…黙って行くつもりだったのかな…」 そう言って笑うと、杏介はピアノに座って楽譜を出して言った。 「先生、この前の続きからです。よろしくお願いします。」 「そんな話!聞いていない!!」 俺はそう叫んで杏介を掴んで言った。 「嘘だろ!嘘を言ってるんだろ!?」 彼の肩を掴んで激しく揺さぶって、怒鳴り散らす。 「あはは!先生、本当に聞いていなかったんですか?あははは、おっかしい!」 杏介は嬉しそうにそう言って…俺を見て…笑う。 「先生には止める権利なんて無いですよ。そうでしょ?いちピアノ講師が家庭の方針に口出しなんて出来ないですよ。そして、桃李も父の言う事を聞かない訳に行かないですよ。彼は父の愛人の子供なんだから…家で面倒を見ている事自体、おかしな話なんですよ…。面倒な父も、桃李も目の前から消えてくれて…僕も母も大満足してるんですよ。」 目から涙があふれて、杏介が見えない… こんな…こんな事って… 足に力が入らなくなって、膝を落として泣く。 そんな俺の姿に驚いた杏介が呆然とする。 「桃李…何で…何で教えてくれなかったんだ…」 俺が彼を拒絶したんじゃないか… 彼は俺を愛してくれたのに…勝手に嫉妬して…彼を詰って…拒絶したのは、俺じゃないか… 両手を着いて泣く俺の姿を杏介が見ている… もう、良い… 体裁なんてどうでも良い… 彼が手の届かない場所に…行ってしまう… 公園で白鳥を踊った桃李の姿が頭によぎって、とうとう突っ伏して泣き叫ぶ。 「彼に会いたい…桃李に…会いたい!!」 心を閉ざす前の、彼に会いたい… 無理な事が分かってるから、絶望しかない… 俺には絶望しかない… 「先生…落ち着いて…下さい…」 完全に怖がっている杏介に聞く。 「いつ…いつ発つんだ…」 杏介は黙って俺を見ている… じれったくて俺は彼の首を強く絞めて聞いた。 「杏介…教えてくれよ…桃李はいつ、いつ発つんだ?」 「再来週の土曜日です…」 彼の首を放して、俺はスケジュールを確認する。 次の桃李のレッスンは…その日まであと何回あるのか… 三回… 三回…?あと、三回しか彼に会えないの? むせてせき込む杏介を無視して、彼の好きなショパンの楽譜をあさる。 まだ全然彼に教えていない…伝えていないのに…!! 俺以外の人からピアノを教わってはダメだ… 俺とお前の秘密じゃないか… 彼の才能が脚光を浴びることを俺だって望んだじゃないか… 本格的な講師が付いたら…彼はそれこそあの才能を開花させることが出来るかもしれないのに…あの才能を恨むでもなく、誇りを持てるかもしれないのに… ショパンの楽譜をひと塊に置いて、心を落ち着かせる。 しばらくそうして深呼吸する。 「この前の続きから…」 杏介に向かってそう言うと、俺は壊れた講師の仮面を付けて彼の前に立った。 気を抜くとまた激情に飲まれそうになる気持ちを抱えたまま、美しい旋律のバッハを杏介に教えていく… 「先生…どうか、気を確かに…」 レッスンが終わり、帰り際の杏介に言われた。 「おかしかったら笑っていい…ざまぁないんだ…」 自嘲気味にそう言って、杏介を見る。 彼は気まずそうに俺から視線を外すと、逃げる様に帰って行った…。 賢明な判断だ。 桃李がフランスに行く。 再来週の土曜日に… そんな話、聞いていなかった。 この前のレッスンの時には、もう…決まっていた事なのかな… 俺に言わないで…行くつもりなのかな… 桃李… 桃李… 俺の名前を読んでくれよ… 桃李のレッスン三分の一回目 彼は今日も服を着替えてからレッスンに来た。 「…桃李、俺に、何か言うことは無いのか?」 俺は、耐えきれなくて…彼に話しかけた。 彼はそんな俺を見て、視線を外すとピアノに向かって歩いて行く。 俺は彼の背中を抱きしめて、強く抱きしめて、もう一度聞く。 「俺に…言うことは無いのか?」 彼はしばらく大人しくしていたが、俺の腕を振りほどいてピアノに座った。 そして楽譜を出して待っている。 こちらも見ずに、鍵盤を指でなぞりながら、俺の指導を待っている… 悲しいよ…こんな事になるならあんな風にしなければよかった… 後悔してもしきれない…辛くて胸が張り裂けてしまいそうだ… 涙がこぼれて落ちるのも隠さない… お前は俺に言わないで…あの親父とフランスに行くつもりなんだな… 桃李…許してくれ… 馬鹿な俺を許してくれ… 嫉妬に駆られて、お前を傷つけた… 「…この前の続きをしよう」 俺は彼の隣に座って、悲愴の第一楽章を弾く。 涙が落ちても構わない… どうして、あんなに彼を詰ったんだろう… どうして、あんなに責め立てて、突き放したんだろう… 全て自分の嫉妬心なのに… 彼は俺を愛してくれたのに。 「桃李…俺を許してくれないか…すまなかった。お前があいつに抱かれていると思って、嫉妬してしまったんだ…あまりに激しい嫉妬で、俺は自分を見失ってしまった。」 傍らに座る桃李は、俺の言葉を聞いてるのかさえ分からない… ただ楽譜をじっと見て、鍵盤を指で撫でている。 我慢できなくて、彼の手を取って握る。 小さな手…まだ幼くて、弱くて、子供の手… 俺はこの子供に…激しく欲情して、激しい嫉妬心をぶつけた… そんな事に応える方の身にもなれよ… おっさんの癖に…彼に甘えて、嫉妬して、駄々をこねた。 俺のだけじゃないと、嫌だ!とみっともなく駄々をこねて… 呆れた彼は俺を持て余して、去ってしまった… 彼の居なくなった後も、ずっとここで、駄々をこね続けるのか… 彼はそっと俺から手を外すと、悲愴の第一楽章を弾いた。 綺麗な旋律で…俺の弾いた悲愴の様に情緒不安定な旋律を奏でない。 彼の美しくて儚い悲愴に、心が締め付けられる… こんなに感情に翻弄されて…溺れて、死にかけている… 項垂れて、鍵盤の上を踊る彼の指を見つめる。 「桃李…愛しているんだ…」 俺の言葉だけが空しく言葉を落として、彼の手が止まる。 前回、止まった場所と同じ場所… さっき俺が一度弾いたはずなのに…コピー出来ていないのか… それともする必要も無いと彼が判断したのか… そこから先に手が動かない彼の代わりに俺が弾く。 こんなのお前には簡単なはずなのに…、もう弾きたくなくなったのか…? 俺の回りくどい教え方に…うんざりしたのか… 厳しく言ったことを怒っているのか? 命令する様に言ったことを怒っているのか…? 桃李…何か言ってくれ… 俺の名前を呼んで… 何か言ってくれ… 残されたレッスンはあと僅かなのに… 焦りとは真逆に俺は桃李の心を開くことが出来なかった。 もう壊れてしまった俺たちの関係は、元に居は戻らないんだ… 今更、縋ったって…彼は俺に辟易している。 そして、何も言わないでフランスに行くんだ… レッスンが終わって帰り支度する彼に言った。 「桃李…俺に…何か言う事は…」 声が震える。 俺の方など見向きもしないで、立ち止まりさえしないで部屋を出て行く彼の背中を見る。 彼の座っていたピアノに座って呆然と泣くことしか出来なかった… もう許してもらえないのか… このまま彼と離れるなんて…死んだほうがましだ… 桃李のレッスン三分の二 今日も彼は服を着替えてからレッスンに来た。 「こんにちは…今日はこの前の続きからやろう…」 心を正常に保って…激情に乱れない様にする。 今日を含めて、あと2回しか彼に会えないと思うと、今にも叫びだしてしまいそうだから…落ち着いて…怖がらせない様に自制心を持ってレッスンをする。 彼の髪を見て、触れたくて手を伸ばして止める。 自分から拒否した癖に… 可愛い彼を、傷つけた癖に…自分で自分が憎くなる。 「一度弾いてみるね。」 そう言って、悲愴の第一楽章をまた彼の為に弾く。 この前の第2楽章はあっという間に弾けたのに…どうしても、第一楽章の後半が弾けなくなる。考えあぐねて途方に暮れる。 何が原因なんだろう… 「桃李…悲愴、弾きたくなかったの?」 彼の目を見て聞いて見る。不本意で弾きたくないのか…弾きたくても弾けないのか…判断する必要があった。 俺の問いに、表情も変えずに首を振って、彼は楽譜を見つめ続ける。 「最後の部分が弾けないのは、どうしてだろうね…嫌いなの?」 彼の隣に座って楽譜を手に取って、眺める。 第2楽章の時と違って、全く加筆されていない楽譜。 「…もうレッスンしたくないの?」 俺の態度に頭に来た勢いで仕上げた第二楽章…必死に音符全てに音階を書いて、負けるものかと書いたんだろう…頭にきて、怒って… この第一楽章の楽譜にはそんな痕跡もない。まっさらな状態でまるで興味を失ったみたいに…白くて新品の様な楽譜… 「もう…興味が無くなったのかな…」 自嘲気味に笑って、彼の楽譜を元に戻す。 動揺して、何も出来なくて固まる俺をよそに、桃李はハノンを一番から弾き始める。 彼の為にハノンの本を出して、譜面台に置く。 それくらいしか、彼の為に出来なくて、涙が流れて落ちていく。 俺は放心して、ハノンを弾く彼を見る。 ただひたすら彼を見て、目に焼き付ける。 俺の愛した人を目に焼き付けて…彼の笑顔を思い出して、涙を流して後悔する。 あの時に戻れたら…俺は二度と彼を離さないのに… 今更言ったって遅いのに…そう思わずにいられなくて胸が苦しい。 もう…遅いんだ… 彼は遠くに行ってしまう。 諦めて、死に場所でも探そうかな… 辛すぎて、彼を失った後、生きていける気がしない… 桃李のレッスン最終日 「最近は着替えてから来るんだな。」 俺はそう言って彼に声を掛ける。 彼は俺に視線もくれず、ピアノに向かうと楽譜を出す。 このまま、言わないで行くつもりなのか… 俺に…言わないで… 彼の背中を見て、問いかける。 「お前の好きな様に…ピアノを弾いて良いよ…いや、聴かせてくれないか…」 そう言って自分の机に腰かけると、彼をピアノに置いたまま書き物をした。 放っておかれて、途方に暮れる桃李を無視して、俺は彼が弾き始めるまで放っておく。 スッと息を吸う音が聞こえて、彼がピアノを弾き始める。 ハンガリー狂詩曲…リストだ。 そんな曲も知っていたの…? 「お前の才能なら、きっと凄い作曲家になれる…」 視線も上げずにそう言って、書き物を…どうでも良い寄稿する記事を書き進める。 上手だ…リストの細かい旋律が一定の音量で細かく跳ねる様に鳴り響く。 美しい旋律に涙が出そうになるよ… 素晴らしい演奏者だ… お前の演奏を見たフランス人は度肝を抜くだろうね… そんなに可愛くて、幼くて…脆くて…でも俺より強い…お前が簡単に、そんなものを弾いたら…きっと大騒ぎになるだろうね…楽しみだよ…桃李。 お前が有名になるのが楽しみだ… きっと素晴らしい事が起こるよ…嫉妬深い俺と居るよりも…ずっと。 桃李の演奏が終わって、俺は下を見ながら次の曲を待つ。 しばらく俺の様子を見ているのか…沈黙が続いた後、ピアノの音がまた聞こえる。 亡き王女のためのパヴァーヌ…ラヴェルだ。 綺麗だな…綺麗な音だ… とうとう我慢できなくて、俺は顔を抑えて泣いた。 美しい旋律と、それを演奏する彼を思って、涙が止まらなくなる。 「本当に…上手だな…」 そう言って、涙を流して笑う。 もう曲が終わってしまった… 次は何を弾いてくれるのかな… 黙って待っていると、彼は人類滅亡の曲を弾いた。 それはリストによってピアノ独奏として編曲されたベートーベンの交響曲第七番第二楽章… 彼が聴きたがって、俺が弾いた曲を… 右手で、たどたどしく…メロディーだけを奏でて… アンバランスだ…あんなに巧みに技巧を使って、難易度の高い曲を弾いていたかと思うと…急に初心者の様にたどたどしくメロディだけを弾く…アンバランスで、危うくて、彼の彼である特異性に胸が締め付けられる。 俺は立ち上がって、本棚から楽譜を取り出すと彼の弾くピアノの横に行って、楽譜を開いてピアノに乗せた。 そして、彼の隣に座って彼のメロディに合わせて、左手を弾く。 人類滅亡の曲を…彼と弾く。 彼の体温を傍に感じて、彼の指が触れて、今にも泣き叫びそうな激情を抑えて、人類滅亡の曲を弾く。 いつの間にか彼の手が鍵盤から退いて、俺だけが弾いている。 傍らの彼を覗き見ると、嬉しそうに微笑んで、俺の弾くピアノを聴いている。 桃李… 彼の笑顔を久しぶりに見て、心の心から涙が滲んで来る… 俺の右腕に彼の体が当たって、暖かくなっていく。 曲が終わりそうな頃、桃李は俺の手の上で手を広げて掲げる。 演奏が終わって、俺が手を退けると、彼は間髪入れずに次の曲を弾いた。 愛の夢…リストだ… 彼の指が鍵盤を美しく動いて、ピアノを鳴らしていく。 美しい旋律と、彼の指の動きに目が離せなくなって…俺は桃李の隣に座ったまま、しばらくその様子を眺めて見入った。 曲が終わると、彼はそのまま続けざまに今日弾いた悲愴を弾く。 その時、やっと気が付いた… これは彼の人生を曲で表現しているのだと… “ハンガリー狂詩曲”から始まって、“亡き王女のためのパヴァーヌ”…これは彼のお母さん…その次は、“ベートーベンの交響曲第七番第二楽章”…これは彼の絶望期とでもいうのか…その後の“愛の夢”は、俺が彼を愛した事を現していて…今弾いている“悲愴”は、俺の愛情と嫉妬と激情だ…。 次は…何の曲を弾くの…? この先、俺とお前はどうなるの…? お前は…どうなるの? 悲愴の途中でやっぱり彼の手が止まるから、俺が変わって最後まで弾く。 一瞬彼の手に触れて、鼓動が早くなる… 彼の繋いだテンポで弾くために気持ちを抑えて、ピアノを弾く。 悲愴を弾き終えて、彼を見つめる。 彼は俺を見上げて、淡々と言った。 「父さんと…フランスに行く。」 やっと、彼の口から告げられて… 俺は目から涙をあふれさせて、彼の目を見て、黙って頷いた。 彼はピアノに向き合うと、指を鍵盤に置いてピアノを弾く。 ワルツ第14番ホ短調…ショパンだ 「これじゃ分からない…この曲じゃ…」 俺達がどうなるのか分からないよ… 俺がそう呟くと、彼は少し驚いた様子で、その後、少し笑った声が聞こえた。 俺は彼の髪に顔を付けて彼の匂いを嗅いだ… 久しぶりに嗅ぐ彼の匂いに興奮して抑えられない気持ちが込み上げる。 「桔平は馬鹿で…誰とでも寝る。このボクとも…」 そう言って笑う彼に、しなだれかかって泣く。 「桃李…桃李…ごめんね…ごめんなさい…俺を許して…」 どこにも行かないで…置いて行かないで…俺の事を捨てないで… お前の事をこんなにも愛しているのに…嫉妬で身を焼くくらい…お前を傷つけてしまうくらい…持て余す激情でお前を愛しているのに…! 縋って泣きつく、どこにも行かないでと… 「桃李…嫌だ…フランスなんて行くな。行くな。俺の傍に居てくれよ…ダメなんだ。お前がいないと、ダメなんだ…。桃李…桃李…愛してる。愛してる。離れないで。ずっと傍に居て…一生愛しているから…」 だったら。 そう言って、ピアノから手を離し、オレの頬を包んで自分に向けて桃李が言う。 「ボクがフランスから戻っても、その時も愛しているんだろ?何か問題があるのか?」 そう言って、俺の髪の毛を撫でると優しく微笑んで俺の名前を呼んだ。 「桔平…桔平は弱くて、脆くて、嫉妬深い…ダメな男だ…」 その通りだ…その通り過ぎて何も言えない。 彼の体を抱きしめて、彼の匂いを嗅いで、彼を寝室に連れ込もうとする。 そんな悪いオオカミなんだ… 「お前は馬鹿だから、少しお灸をすえてやらないといけない。ボクは悲しかった。」 桃李の体を抱きしめて、彼の唇にキスして、舌を絡める。 ずっとこうしたかったんだ… 熱く愛して、キスを放さないで、もっと強く愛して、誰にも触れさせたくない。 「桃李…ごめんなさい。俺を許して…馬鹿な俺を許して…」 彼に縋って、彼を支配して、彼を愛して、彼に愛される。 「いやだ、許さない。だからボクはフランスに行く。お前が泣いても。」 俺の泣き顔を見る様に、桃李は俺の髪をかき上げて顔を覗いてみる。 そして、うっとりした顔をして言う。 「本当に…お前は馬鹿だ。」 そして俺にキスをくれる。 彼の柔らかい唇が触れる感触に酔って、頭がふらふらになる。 「桃李…行かないで」 「まだ言うの?」 そう言って笑うと、彼はまたピアノに向かって指を落として言った。 「本当に馬鹿だ…」 何てことだ…俺が縋っても…桃李はフランスに行くんだ。 俺が馬鹿だから… フランスにイカレた親父と言ってしまうんだ… あの時、お前の隣に行ってピアノを弾いたら…違ったのか? そうしても、お前は結局フランスに行くのか…? 「嫌だよ…絶対、嫌だ」 そう言って彼の弾く子犬のワルツを聴く。 俺は子犬じゃない…オオカミだから。 お前をかっさらってやる。 自分の為に…お前をかっさらって…食べてやる…

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