4 / 7

執事飼い 3 完

・首絞め描写あり ◇  狗飼(いぬかい)羊一郎を監禁してから3日後、館から爆炎が上がった。爆音は1度だけでは治まらず、何度か立て続けに多少の遠近感を持ちながら起こった。鼓膜に容赦のない音を聞き、隣で寝ていた元執事は機敏に起き上がり、眠気眼(ねむけまなこ)魅狼(みろ)を庇うように腕を出した。彼は首輪を付け、全裸だったが部屋は常温に保たれているうえに布団を肩まで掛け、若い主人と固く抱き合って寝ていた。  ドアを蹴破るように美形の警備部員がノックもせずに入ってきた。執事が当主のペットになったことにも眉ひとつ動かさない。黙ったままペットと眠る館の主人の前に出る。 「魅狼様、避難してくださいませ」  隣にいた元執事が現役の頃のように寝間着姿の魅狼を急かした。魅狼は慌てている愛しい人の頬に口付ける。 「何が起きてるの?」 「放火魔が侵入したようです」 「放火魔?」  愛想のない男は頷いたり捕捉したりはしなかった。 「避難ルートはご存知ですか」 「みんなは避難してる?」 「はい」  近くでまた爆音がした。美青年の耳に挿さった器材の一点が赤から緑に変わる。口元を押さえ、低い声が業務連絡をした。 「本館以外墜ちました。避難をお願いいたします」  感情もないのか動じた様子もない。飼い猫フェンリルが大暴れした時と内容に大差がないような調子だった。 「魅狼様、速やかに避難を……」  薄い瞼の折り畳まれたのが乗った切れの長い目がまだペットになりきれず執事然としてしまう全裸の男を射抜いた。 「獅子囃(ししばやし)詩凰(しょう)。この名に覚えはありますか」  魅狼の隣の肌がぶるりと震えた。 「………知り合い?」  大好きな擬似配偶者の反応に魅狼は図らずも声音が低く厳しくなった。全裸のために寒いのか、みるみる仮夫の肉薄の唇は色を青くする。 「(わたくし)の………片夫(おっと)になる人です」 「へぇ…」  魅狼は陰湿に嗤った。 「会いたい。案内してくれる?羊一郎はボクのだよって伝えに行く」  夫が迎えに来たという真横の擬似配偶者が息を呑むのが聞こえた。 「い、いけません…」 「承知しました」  元執事と警備部員は反対の判断を下した。 「本館が堕ちる前にどうぞこちらへ」 「羊一郎はここで待ってて。避難する?」  若当主は仮配偶者にキスすると首輪を外し、ローブを渡す。 「ボク、羊一郎が逃げないって信じてるからね」  圧を掛けている間、麗しい警備部員は扉の前まで移動し、相変わらずの永久凍結された表情で魅狼を待っていた。銅鑼権佐原(どらごんざわら)家の幼い当主はもう擬似夫を顧みない。そして癖のように隣に侍る男の手を握ってしまう。冷たい肌に触れたと同時に今隣に立つのは優しい老執事や朗らかな庭師、愛しの男ではないと思い出す。侮るような視線が真上から降り注いだ。手を引っ込める。 「どうして行かせてくれるの」 「本館焼失は免れるかも知れませんので」  爆音や揺れは確かに聞こえ感じていたが、魅狼が現実みを得られなかったのはこの男から報告を受けたからに違いない。 「どんな人だった。羊一郎の……」 「魅狼様と変わらない現代風の若者でした」  声質がもともとその顔立ちと合致したように美しい音色を持っていることを差し引くと無味無臭の態度で彼は言った。この口から聞くと、どのような内容でも意外性はないような気がする。爆音と焦げ臭さ、崩落に伴う地震が続いた。氷像は若い雇主を守るためだけに身を屈め、時には立ち止まり、前を歩いた。温度も次第に上がっていく。大きな曲がり角はその路だけ赤々と光っている。遠回りになりながら警備部員の案内のもと、中庭に出る。そこには緋色の炎海に囲まれながらぽつんと立つ人型の影絵があった。まだ避難しきれていなかった者を一人ひとり眺めているような剽軽なところがあった。少し離れたところからみても狗飼と並べるような体格ではなく、背はそう高くない。ハーフパンツに素足を晒し、夜のジョギング帰りかスポーツを愉しんでそのままの服装で来たという感じで、上半身には吸水性に優れた生地の長袖ジャージを身に纏っている。雰囲気からして客観的には魅狼よりも歳上といったところがあったがこの館の幼い当主からすると、自分と同年代であるというのが見解だった。髪はこの機に燃えたのかと思うほど軽やかでエアリーな仕上がりだが、丸いシルエットを作りながらも毛先が跳ね、さっぱりとしない。徐ろに彼は振り返った。大きく吊り気味な目、眉や口元からも好戦的な印象を与える。彼は魅狼の姿を認めると、手に持った、ありきたりなボタンをひとつ押した。爆破予告と避難を促すアナウンスが赤夜に響く。少年か青年か判断の迷うジャージ姿の男は緋色に逆光しながら何か言ったが、その女声のアナウンスと崩落する建物、本庭からの消防車のサイレン、避難者などの怒号によって掻き消えた。あと3分でこの館は爆破されるらしかった。 「警備員さん、羊一郎と逃げてよ」 「承知しました」  何の迷いもなく美しい警備部員は了承し、何の頓着もなく簡単に魅狼の傍を離れた。爆弾魔が魅狼のもとにやってくる。手にしていたプレゼント用のチョコレートの箱を思わせる大きさと厚みの器材をよく刈り込まれた青々しい芝生に放り投げ、唇を尖らせている。 「獅子囃(ししばやし)羊一郎って知らない?」  横柄な態度で、彼はわずかに頭を上げて魅狼を見下ろすようにしながら訊ねた。 「狗飼(いぬかい)なら知ってる」  まだ少年のような空気感を持っている青年とも紛うような年齢の推定も難しい男は、人為的に細くなっている眉を片方吊り上げた。 「ふぅん。まだいいや、それでも。でさあま、オレの連れ合いが3日間も帰って来なくってさ。婚約者(ダンナ)として心配になるでしょ?」  彼は肩を竦めた。この外見からですら少年とも青年とも断じられない男が魅狼の大好きな元執事の婚約相手で間違いないらしかった。彼こそが獅子囃(ししばやし)詩凰(しょう)だ。 「帰してくんない?労基違反だよね。通報しちゃおうかな」  スニーカーが芝生を散らして魅狼に向かい歩いてくる。 「まだ館内(なか)だよ」 「本館だよな?」  魅狼は首を傾げて答えなかった。それを相手は肯定と捉えたらしかった。文字通りの文字を辿るように胸を撫で下ろす。 「よかった~、本館まだ焼肉してなくて」  ある程度の距離を空けて獅子囃は足を止めた。スニーカーに芝生の残骸が付いている。 「責任者出してよ。ここン()のお偉いさん」 「ボクだよ」 「はぁ?」  獅子囃は首を突き出した。猫目がさらに大きくなる。 「メスガキに構ってらんねンだわ。オレの連れ合い、獅子囃羊一郎、旧姓でいうと狗飼羊一郎を出してくれやって言ってんの」  一度止まった獅子囃はまた歩き出す。その目には炎に炙り出された真っ黒な本館が映っていた。 「行かせないよ」 「行かせなくて結構ケッコー、コケコッコー。てめぇが来りゃいいんだよ」  すれ違いざまにジャージの男は魅狼の腕を奪い取り、迷いもなく本館に踏み込んだ。魅狼は慣れない速さと乱暴な力加減に(つまず)き、よろめいた。長い元執事だけでなく、無愛想な警備部員でさえ若い当主の歩幅、歩速に合わせていた。しかし獅子囃にはそれがなかった。荷物を引くような要領で、魅狼は何度か痛みを訴えるも改められることはなかった。 「羊一郎の状態次第じゃぶっ殺してやるからな」  何度目かの訴えで、獅子囃は魅狼を放すかと思いきや、その華奢な身体を壁に打った。首を掴まれる。容赦のない握力で、魅狼は呻くこともできなかった。 「ここン()のお偉いさんとてめぇの首もついでにテレビ局に送り付けてやるわ。生放送中の映り込みにな。全国放送にてめぇ等の情けねぇツラ晒してよ。オレはお縄、てめぇ等はあの世にすたこらさっさと死亡(トンズラ)こけるんだから、オレのがずっと()が悪ぃワケ。連れ合いがハズカシメられたんじゃそれくれぇしねぇと婚約者(おとこ)の名が廃るわな」  飄々として彼は言った。怒気もなければ殺気もない。細い首にある、男ならば目立つ飴玉のような隆起がわずかに沈んでいる。魅狼は白目を剥きかけていた。窒息し、視界に靄がかかった頃に手が離れる。 「羊一郎は………っ、銅鑼権佐原(どらごんざわら)の、お姫様になったの……!」 「お姫様!」  獅子囃はわざとらしく吹き出してみせた。魅狼の夢見がちな(たと)えについて嗤ったのではないようだった。 「お姫様!容姿(カオ)女体(あな)で勇者様を繋ぎ止めておくためのお国の道具ってワケかい、羊一郎は?ざけんな。オレぁ邪悪なドラゴンザウルスになっても、その姫様ってやつのくだらねぇ存在価値(じゅばく)から解き放ってやらねぇと」  彼はけらけら不気味に、響きやすい廊下でさらに、故意に響くような哄笑をする。また無遠慮な手が魅狼の細い首を鷲掴む。 「先に手ェ出したのそっちだからな。そのあたりの自覚(プライド)くれぇあるよな」  (かよわ)い娘のような肉体を首で持ち上げる。魅狼はジャージを引っ掻いた。爪が磨かれ、摩擦の熱を持つ。獲物を追い詰めるだけでは飽き足らず、嗜虐的な光りが印象的な目に込められている。窒息の苦しみだけでなく、皮膚組織が圧迫される痛みもあった。足の裏が床から離れた。口の端から唾液が漏れる。逃げようがなかった。 「まっさか羊一郎にこんな真似してねぇよな?」  首を絞めるようなセックスはしなかった。しかし姦通してもなお、魂だけは貞淑を貫こうとする元執事を快苦によって嬲り、目覚めるたびに抱き潰した。 「もう地獄逝きだろ。あの優しい天使っつーかもはや神みたいな羊一郎にこんな真似(コト)しちまったなら、もう地獄逝きだわ。可哀想だから、孕ませ島送りにしてやるよ。脂ぎった臭くて汚ったねぇオッサンどものガキぼこぼこ産めよ」  首を掴み上げる手とは反対の手の甲が魅狼の腹を軽く叩く。 「あれ?お前、男?ぽこちん付いてんの?」  腹を叩いた手が固く拳を作る。魅狼は胃痙攣を起こしたように暴れる。 「じゃ、始末の悪ぃぽこぽこちんちんは潰しておかねぇとなぁ!」  爆発音に引けを取らないほど獅子囃は叫んだ。拳は、元執事を穿ち苛み、突き込み甚振り、打ち付け嬲った凶暴な剛茎を狙っていた。しかしそのとき、ある声が獅子囃の意識を逸らした。 「狗飼さんはこちらです」  業務連絡にしか声帯を使わない警備部員だった。 「お、めちゃくちゃイケボやん。あのさぁ、ついでにここン()のお偉いさんがいるトコにも案内してほし~んだけど」  返事はない。獅子囃は「無視かよ~」と呟くと、魅狼を塵芥の如く廊下のその辺に投げ捨てた。小さな身体は壁に打たれた後、床に転がる。芝生で汚れたスニーカーは無表情で無感動な警備部員についていく。  魅狼は息を吸い、呼吸を整えた。絞めらた首が痛み、酸素を堰き止められていた喉は灼けるようだった。遅れながら元執事を置いていった自室に帰る。ベッドのあるほうからヒステリックな叫び声が聞こた。癇癪を起こしたらしい薄着の狗飼は、婚約者であるはずの獅子囃から逃げようとしていた。黒板を引っ掻くような金切り声で、狗飼はベッドの端で身を縮める。 「羊一郎?迎えに来たんだケドな。そんな態度取っちゃうんだ?」  飄々として喜と楽以外が欠落しているような獅子囃は髪を掻き乱し、困惑を示す。 「ごめんなさい……詩凰(しょう)さん………おれには、君と行く資格はありません…………ごめんなさい、ごめんなさい。おれのことは忘れてください………」 「いやいや、忘れてくださいってそんな。ムリっしょ。ンじゃ羊一(ようい)っちゃんも、オレと行く資格を失効(なく)したの忘れて、オレと行こうよ」  狗飼はぶるぶると黒い髪を振った。 「ごめんなさい、ごめんなさい。許してなんて言えないけど、ごめんなさい。おれ、詩凰さんのこと裏切ったんです。ごめんなさい」  彼は両手で顔を覆って泣き出してしまった。獅子囃はそれ以上の接近を試みるでもなく、使用済みなのか皺の寄ったタオルを婚約相手に投げた。 「オレの汗の匂い嗅いで落ち着けや。オレ、割と羊一っちゃんの大体のこと許す気なんだけどな。オレん()の実家に火を点けたとかならギリギリ許さないかもだけど。あ、あとオレより先に死ぬとかな。いやでも、そこはオレ羊一郎のコト置いてけないからオレより先に死んでくれや、ジジイになったらな。ジジイになったら。こう、オレか羊一郎が瀕死(ダメ)げになったら自動的に地球がポンッ!てポップコーンができるときみたいに消滅してくれると、ありがてぇんだけどな」  魅狼の元執事の婚約相手は好き勝手なことを話し始めた。主題から逸れていく。 「こう、みんな何してっか分からないうちにポンッ!てさ。それが幸せっちゃ幸せじゃない?恐怖も不安もなくってさ。後悔もねぇの。ダメかね?でも羊一郎から目を離してる時だったらヤだな。オレが何かに気を取られてるときに、ポンッ!はさ。ヨボヨボのジイさんになったオレと羊一っちゃんが布団並べて見つめ合ってるときに、どちらからともなく屁が出るみたいに、ポンッ!が理想だな。うん、間違いない」  なおも獅子囃は、震える狗飼に背を向け、肩を竦めて喋り続けた。 「一昨日(おとつい)は、連絡も寄越せないほどちょっとなんか残業あったんかな?って思ってよ。昨日はもしかしたらまだ仕事終わんねぇのかなって心配になっちまったけど、羊一っちゃんに気ィ遣わせたくねぇし。流石にそろそろヤベェかなって。今日朝まで待って帰って来なかったらヤベェってことにした。一昨日、昨日、今日の朝、あれ?日付け変わったんだっけ?じゃあ1コずらして……、とにかく、羊一郎の好きな物作ったワケ。もう捨てんのヤなんだけど。ロールキャベツだろ、海老フリャ~は惣菜の揚げ直しだけど。あとオムそばな。それからおでんは2日目だからそろそろ出汁(だし)染み込んでるし。あと味噌ネギまな」  ちら…と彼は婚約者を肩越しに振り向いた。 「でもこれだと羊一っちゃん、飯に釣られたみたいだよな。オレの飯は美味いから仕方(しゃー)ねぇケド。なぁ、羊一郎、オレに対して(マジ)ィことしたなら、オレの傍で、償ってクダサイヤ」  獅子囃は振り向いた。両膝に手を置いて、上体を傾けると項垂れた。 「(ケツ)の婚ってそーゆーもんだろうが。頼むで、羊一郎。羊一っちゃんが独りでバイバイすることじゃなくて、オレの傍でオレにアイサレテ、オレのことアイスルのが、羊一郎の宿命(しごと)なの。(ケツ)の婚したからには」  啜り泣く狗飼がやっと顔を両手から剥がした。 「帰ろうぜ。ここで何されててもオレは羊一郎のコト好きだし。羊一郎が思ってるよりかは3倍くらい、羊一っちゃんのことアイシテルわけ。つまり要するに、資格ってやつを失効(なく)しても、羊一っちゃんがオレを選ぶ権利とか義務とか自由とか責任とかはあるワケ」  狗飼の潤んだ目が涙を潰した。 「指輪を………指輪を、失くしてしまったんです。君が、贈ってくれたのに。失くしてしまったんです………!」 「なるほど、オッケー、完全に理解したわ。世の中の真理と自然の摂理ごと理解した。高かったは高かったけど、ま、物だしな。いつか豆腐みてぇに壊れちまうよ。羊一郎の負い目になるくらいなら渡さなかったから、気にすんな。また稼ぐし。当分は露店の胡散臭いリングで許してくり」  狗飼が失くしたのではなかった。しかし彼はそれを伏せ、自身の過失にしてしまう。魅狼は得体の知れない苦々しさに襲われた。 「あ、やっぱオレが自分で作ろ。指輪失くすなんてよく聞くし、羊一っちゃんが気にすることじゃねぇケド、何個失くしても壊しても大丈夫だし、毎日違うの付け替えてさ。でっけぇドアノブみてぇなライオンとかの形にしよ。いいね、そういうペアリング!」  巨大なベッドの上を狗飼が這った。繊維が擦れ、乾いた音を立てる。 「詩凰(しょう)さん……」  獅子囃は屈んだ。泣いたばかりの狗飼が婚約者に向かい、やがて抱擁を交わす。 「おけーり。冷えたな」  獅子囃はすでに狗飼の持っているタオルを首に巻き、まだ着ているジャージを脱いで、婚約者の肩に羽織らせた。 「ごめんなさい……」 「いいって。謝りなさんな。許す許す許す許す許す許すって言いまくるぞ」 「違うんです。指輪を失くしただけでは、なくて…………」 「言いたいなら言っていいケド、許すよ。オレの実家に火を点けたとかなら別だけど。口にしてつれぇならやめちめぇ。オレは許すんだから、手前で手前を傷付ける必要はねぇわな」  彼等は固く抱き合った。獅子囃の肩口で、魅狼の聞いたことのない啼泣が上がった。2人のカップルを呆然と見ながら立ち尽くす小さな肩に、青と白に金のボタンが留まった袖から伸びる手が乗った。 「待てよ。羊一郎のコトここまでいじめていぢめてイジメ抜いて、ただで済むと思ってんの?」 「いいんです、いいんです!詩凰さん」 「長いコト一緒にいたんだろ?情でも移っちまったか?許せねぇコトは許さなくていいんだ。手前を窮屈にする優しさなんてやめちめぇ」 「ダメです!おれは君が迎えに来てくれた…それだけで、何も怒ることも悲しむことも無くなってしまいましたから」 「本当かよぉ?でもな、これだけは言わせろ。今後二度と、羊一郎には関わるな。指っつーか爪の先っちょでも触ったら許さねぇからな。許さねぇって言うと漠然としてんな。そう、つまり、お前の住んでるところに火を点けるからな」  獅子囃は自分の婚約者の髪を梳きながら魅狼のほうに指を突き差した。狗飼は若主人にはやらない甘えた様子で、婚約者の腕に身を預け、他の誰のことももう意識にはなく忘れ、見えていないようだった。 「やだ!羊一郎はボクのだもん!」  魅狼の一歩踏み出す身体を、肩に触れる氷像の手が阻む。獅子囃は溜息を吐いた。顔を上げた狗飼にキスをして、片手は見せびらかすように端末を押した。その仕草はテレビのチャンネルを替えるような気軽なものだった。近くで爆発の音がした。 「ごめんな、羊一郎。大事な職場、焼肉にしちまうわ。ついでになんかよく分からんガキも。でもこれでチャラ。オレのがむしろヤベェかも」 「………いいんです。君がおれのためにそう決めたなら、背負うべきはおれです」  床が左右に揺れ、天井から粉塵が落ちてくる。ドドドド、と連続する花火のように炎が部屋を巻く。 「魅狼様」  氷像は身体が溶けるのを危惧したのか魅狼を急かした。 「さようなら、魅狼様!どうか、どうかご無事で………」 「ま、オレが責められないように生き残ってくださいや~!」  おそらく自分よりも背丈も質量もある婚約者を、獅子囃は造作もなく抱え上げ窓を開け開いた。桟に足を掛け、揺れの中、時機を見計らい飛び立つ。燃え盛る火が氷像と館の主人を包囲する。 「避難しましょう」  魅狼は氷の警備部員の手を払った。 「いい!1人で逃げてよ!ボク、ここに残る」 「何故」 「羊一郎の匂いがまだ残ってるから」  美貌を赤々と照らす氷彫刻は体操でもするように首をぐるりと回す。 「これ、返しといて」  橙に染まる小さな手を差し出す。周りの光によって緋色に煌めく輪が乗せられていた。氷彫刻の手は伸びてこない。 「魅狼様はどうなさいます」 「どうしよっかな~」 「俺もあの執事を好いていたんです。ここから生き延びて、あの砂利子供(ジャリガキ)に一泡吹かせたいと思っています」  氷彫刻の美男子は迫り来る炎にも動じなかった。大規模で派手な焚火が鳴っている。どこかの柱が軋み、天井には亀裂が入っていた。埃と塵、屑とかすの雨か降っている。 「………まじで?」 「一泡どころか俺は血反吐まで吹かせることになっても構いません」  魅狼は脱力し、動く気配もなかった。氷の警備部員はそこに寄り添いもせず、炎に照らされている。 「まずはこちらを返報の一手にしましょうか」  柔らかな掌を、リングを取った指が浅く引っ掻いた。 「もしかして同志(おとり)が欲しいからボクのこと助けてくれた?」  氷彫刻は返事をしなかった。魅狼は首を捻って見上げた。豪火に輝いた美貌が陰湿に笑んでいる。  2人の反撃の日々が始まる。 【執事飼い 完】

ともだちにシェアしよう!