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第六章 傷心

 七浦の家からマンションに帰った芳樹は、妙に静かだった。  青葉の淹れたコーヒーを、ただ黙って見ていた。  始めは、香りを楽しんでいるのかと思ったが、そうではない。  次に、色を楽しんでいるのかと思ったが、そうでもない。  ただ、コーヒーのかすかに揺れる表面を眺めて、物思いに耽っている。  そんな印象だった。 「芳樹さん、お気に召しませんか? 淹れなおしましょうか?」 「え? あぁ、いや。そうじゃないんだ」  そして静かにカップを置き、穏やかに言った。 「青葉、安藤さんのところに帰るかい?」 「え……?」  あまりに唐突な言葉だったが、芳樹にとっては思いがあった。 「実家でお父様が青葉を連れて行ってしまった時、思ったんだ。ああ、私は同じ苦しみを安藤さんに、青葉に与えてしまったんだな、って」 「芳樹さん」 「本当に、すまなかった。謝って許される事じゃないとは解ってる。残された道は、君を安藤さんに返してあげる他ないと思うんだ」  青葉の心は、揺れた。  芳樹さんのことは、好きだ。  だが、智貴さまのことも愛している。  振り切ったつもりでいたが、そう言われると思慕がどっと沸いて来た。 「では……、お別れだけ言わせてください。智貴さまと、きちんと決別したいのです」 「それでいいのかい?」 「今は、そう考えます」  解った、と芳樹は青葉を見送った。 「青葉は、ああ言ってくれたけど」  もう、ここへは戻ってこないだろうな、と思いつつ見送った。

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