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16 心の変化
結局電源の落ちた携帯電話は、充電器が見当たらなかったのもありそのままにしておいた。浩成が帰宅しても、携帯のことはもちろん、部屋に入ったことも、何となく言ってはいけないような気がして黙っていた。
はっきり言って楓真は「それ」に触れるのが怖かった──
「おかえり。今日はロ—ルキャベツ作ったよ。早く手を洗っておいで」
浩成が帰宅するなり楓真は明るく声をかける。いつもならこんな風に自分から声をかけることは少ない。大体決まって浩成の方から「ただいま」と声をかけ、今日あったことや楓真の一日の過ごし方を聞いたりするのが常だった。
「どうしたの? 何かいいことでもあった?」
「え? 別に……そういう風に見える?」
楓真は勝手に部屋に入ったことや携帯を盗み見たことに後ろめたさがあった。浩成の好物を作ったのも、こうやって自分から明るく話をするのもその証拠だ。幸い浩成からは単に機嫌よく見えているらしく、いつも以上に嬉しそうに、楓真にただいまのキスをした。
「相変わらず楓真のロ—ルキャベツは最高だな」
一人満足気に食事を頬張る浩成をじっと見る。
あの携帯は何なのだろう。「千晃」という人物と浩成、そして自分との関係は……? 咄嗟に出た名前だけど、本当にあの画面の男が「千晃」なのかは、楓真にはわからない。聞いてみてもいいけど、やっぱり勝手に部屋に入ったのは言い辛かった。それにそのうち記憶が戻りそうな気もしなくもない。記憶が戻るときは、勝手にパッと頭に閃くようなイメージをしていたけど、実際は今回のようにちょっとしたきっかけで、少しずつあやふやに思い出していくのかもしれない。
「楓真? 聞いてる?」
「え? ごめん、何?」
突然の浩成の声に現実に引き戻され、楓真は慌てた。少し真面目な顔をした浩成が「ぼんやりして大丈夫か?」と言いながら、箸を置いた。
「バイトでもしたいって言ってたろ? 俺もそろそろいいんじゃないかって思ってね。楓真も一人で昼間ここにいるのももう退屈だろ?」
「あぁ……うん、そうだね」
「あれ? もしかしてあんま乗り気じゃない?」
自分には帰る場所もあるし、浩成もいる──
少し前までは早くバイトでもいいから働きに出たいと思っていた。記憶が抜け落ちていると言っても、日常生活を送ることには何も支障はない。だからお金の事だけでなく、外に出てまた違った刺激を受ければ大切な記憶を取り戻すきっかけに出会えるかもしれない、そう思っていた。それなのに今は記憶を取り戻すのが少し怖いと感じる。自分の知らない現実が今より幸せなのかどうかもわからない。もしかしたら浩成が言っていたように、思い出さなくてもいいのかもしれない。
「別に家計に困ってるわけじゃないし、急ぐことはないよ。楓真の気が向いたら、ってことで。仕事のことは気にしなくていいからな」
「うん、ごめん。もうちょっと考える」
浩成は楓真がここで目覚めてから一貫して、余計なプレッシャーを与えずに見守る姿勢でいてくれた。好きなようにさせてくれ、記憶だって戻らなくてもいいとまで言っていた。
今の楓真にとってはこの場所と浩成の存在だけが事実。記憶障害のきっかけとなった「怪我」の原因だって未だ分からずじまい。せっかく今、幸せな気持ちで穏やかにいられているのにそれを壊してしまうのでは、と思うようになってしまった。
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