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21 嘘

 楓真が「千晃」と言う名を口にした。  浩成は千晃の名を聞いた時、動揺を隠し素知らぬ顔をして「知らない」と嘘を吐いた──  ずっと恐れていた事……浩成にとって一番避けたかったこと、一番思い出して欲しくなかった名前。これをきっかけに、また新たに楓真の記憶が蘇るのも時間の問題だとため息が出た。  一緒に生活をするようになってからまもなく半年。まさかここまで楓真が記憶を取り戻さずにいるとは浩成も思っていなかった。医者は追々記憶が戻るとも、そのままかも、とも、どっちつかずな言い方をしていた。  だから浩成は記憶が戻らない方に賭けたのだ。  一週間、二週間……一ヶ月と過ぎていく日々。このまま記憶が戻らなければいい、と何度も思った。全くのゼロの状態から楓真の中に自分の存在を植え付けることができ、それは楓真の中で大切なものになった。記憶がなくとも信頼を得て、更には「恋人」として認めてもらえたことに喜び、安心していた。  初めこそ、楓真が自分で記憶を取り戻し判断すればいい……たとえ記憶が戻らなくとも、何も問題はない。そう思っていた。けれども浩成は楓真の記憶が戻らないことを望んでいた。実際記憶が戻る様子もないし、このまま幸せに日々が過ぎていくものだと思ってしまった。 「なあ、千晃って誰?」 「千晃? 誰それ?」  一瞬心臓が凍りついたように感じた。うまく誤魔化せただろうか。つい先程まで「嫌いにならないで」と泣き言を言っていた楓真から、まさかこんな唐突に千晃の名を聞かされるとは夢にも思わなかった。  確かに今日の楓真は様子がおかしかった。セックスをしていても碌に視線も合わず、扱いも雑に感じた。何かに苛ついているのは一目瞭然で、その原因は楓真の「記憶」に関係あるのかと薄々感じていた。  恐怖、不安、焦り──  愛する楓真に雑に抱かれながら、浩成はそれらの感情を押し殺し、どうしたのかと問いたいのをぐっと堪える。きっと楓真は浩成から聞かれるのを待っている。だからあえて聞かないで、わかっていないフリをした。 「── 何か思い出したのか?」  千晃という名に心当たりがないと首を傾げる楓真に問う。今まで「無理に思い出さなくてもいい」と言う言葉はよく伝えていた。でも記憶に関する状態を楓真に聞くことは、これが初めてだった。肯定の言葉が返ってくるのが怖かったから、どうしても今まで聞けないでいた。千晃のことを思い出したわけではなく、ふと頭に浮かんだ名だと言う楓真に少し安心し、それとなく話題を逸らしてその場を凌いだ。  不安感に押しつぶされそうで怖い。いつも通り一緒に眠りにつくのが怖い。浩成は「仕事が残ってる」と誤魔化して、使われていない自室に籠った。幸い楓真は何も勘付くこともなく、元来少しいい加減な性格なのもあり深く考えるのはやめたようだった。  浩成は引き出しの奥にしまっていたスマートフォンを取り出し、電源の落ちた画面を撫でる。  つい先日、新たなメッセージなどが入っていないか確認するために少しの時間操作した。それをここに出しっぱなしにしていたのは帰宅した時に気がついていた。今までこの部屋に楓真が入った形跡はなかったけど、この日ばかりは「もしかしたら」と勘ぐり、きっとその予感は的中していたのだろう。でも、充電はきちんとしていなかったはずだから、じっくり見られたわけじゃない。これが自分の物だと気が付けば、聞いてくるか、持ち去っているはず。それもなかったから、恐らく自分の物だとは気が付いていない。  このまま時が来たら、覚悟を決めて楓真と話し合おう。きっと大丈夫、楓真なら……と、今までの日々を思い返す。浩成は大きく呼吸をし眠りについた。  けれどこの日を最後に、楓真は家から姿を消した──

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