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32 吏紀

 楓真が夕飯の支度をしていると、カチャリと玄関の鍵が開く音が聞こえた。  千晃が帰宅する時間にしては早すぎるな、と思いながらも楓真は手を止めずに「おかえり、早かったね」と玄関に向かって声を張る。続いて聞こえてきた声にドキリとし、声の主に顔を向けた。 「ただいまぁ、帰ったよ。うわぁ、ほんとにいるよ……楓真君」  楽しげにリビングに入ってきたのは千晃ではなく吏紀だった。 「え……なんで吏紀が?」 「へ? なんでって、服取りに来ただけだよ。あ、なんか良い匂いする! もしかして楓真君、飯作ってた?」 「あ、うん。そうだけど」  吏紀はチラッとキッチンを覗き、そのまま何食わぬ顔をしてベッドルームに入っていく。ガサガサと何やら音がして、程なくして両手に服を数着抱えリビングに戻ってきた。 「それ、吏紀のだったんだ」 「ん? そうだけど?」  ソファに腰掛け、服を適当に畳み始める吏紀を見つめる。楓真はだいぶ混乱していた。何から聞いたらいいのかわからない。それに先ほどから感じているこの息苦しさと、冷えて震える指先に軽い恐怖心が込み上げていた。   最初にこの家に帰ってきて感じた違和感。それらの原因が吏紀だったのだとわかる。寝室の千晃のではない香水の匂いや、自分のではない歯ブラシや洋服。それらは今目の前にいる吏紀のものだったのだ。 「なあ、家の鍵……何で? 何で吏紀?」 「鍵は千晃さんから預かったもの。俺の私物がここに色々あんのは、よく泊めてもらってたから……って、楓真君? 聞いてる? ぽかんとしちゃってるけどさ、千晃さんも楓真君も公認だよ? 俺、勝手してるわけじゃねえよ?」  溜息混じりに面倒だと言わんばかりの顔をして吏紀は話す。 「ねえ、それさ、千晃さん困惑してたけどさ、ほんとに楓真君、記憶ぶっ飛んじゃてんのね。びっくり」  千晃は楓真の記憶に関して半信半疑だったようで、吏紀も同様にあまり信じてはいなかったらしい。でも、意地悪く楓真を一瞥すると言葉を続けた。 「もしかしてさ、何で? って思ってる? それ言うなら、俺の方こそ何で楓真君、楽しそうにここで料理なんてしちゃってんの? って思うよ」  何か言いたげにクスッと笑い、吏紀は玄関に歩いていく。明らかにバカにされたような気がして嫌な気持ちになった。でも吏紀の言う通り、戻ったと思った記憶はまだまだ完璧ではなく、自分の知らないことの方が多いような気がした。  そもそも自分と千晃が交際していて一緒に住んでいる事実を吏紀も知っていたことが不思議だった。恋人関係にあることは隠していたはず……同じ職場で、ましてや雇用主と一従業員。他にバレたら色々面倒だから、とお互い言っていたのではなかったのか。 「楓真君、またね。てかいつまでいるの? 店には戻んねえの?」 「……あ、ああ。美容師は、うん。もうやらないと思う」 「ふぅん、そっか。もったいね……」  吏紀は無感情にそう言うと出ていった。

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