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49 邪な思い

「あ、繁村様……」 「浩成! 浩成、でいいです。名前で呼んでください」  我ながら言ってることがおかしくないか、浩成は不安になった。呼び方なんて全くどうでもいい事なのに、思わず出てしまった欲にじわりと汗が吹き出した。 「そ? じゃあ浩成君、カラーはどうします? 俺ならもうちょっと明るくしたいかな、って思うんだけど……お仕事ありますもんね?」  浩成の不安をよそに、楓真は何でもない顔をして気安く名前で呼んでくれた。そのことが堪らなく嬉しかった。 「あー、うん。このままでいいかな。でもどうしよう……」  できるだけ長くこの場に留まりたかった。  楓真ともっと話がしたい。髪にもっと触れてほしい。鏡越しに見つめてほしい。息が触れるほど近くで話しかけてほしい…… 施術のことではない邪な思いが膨らみ、優柔不断な態度をとってしまう。 「浩成君の今の髪色も自然だし、このスタイルにも似合っててかっこいいですよ」  無理に勧めてくることもなく、気持ちいいくらいに褒めてくれる。おまけに「浩成君」などと親しげに呼ばれてしまえば舞い上がる気持ちが溢れてしまう。楓真は単に客の相手をしているだけなのに、浩成にとってはそんなことは関係なく、グッと距離が縮まり親しくなれたような気がしてならない。どんどん気分が良くなってしまうのもしょうがないことだった。 「あっ……ごめん。時間……」 「ん? ごめんなさい。お急ぎでしたか?」 「あ、違くて、俺なんかに時間かけさせちゃって大丈夫かなって思って」 「へ? 全然? そんなこと気にしなくていいっすよ。浩成君、面白いね」  浩成は楓真が人気のスタイリストだとわかっていた。予約だってタイミングよく取れたのが奇跡みたいなものだった。だから店側としてはさっさと決めて終わらせたいんじゃないかと急に不安になってしまった。  それに浩成は気が付いていた。鏡越しにちらりと見えたこの店の店長と思しき人物。彼こそあの公園の彼。今目の前にいる愛しい楓真の「恋人」だった。  なんとなく視線を感じる。  自意識過剰、被害妄想でしかないのかもしれない……それでも先程から睨まれているように感じてならなかった。  結局カラーはせず、楓真の見立ての髪型にしてもらった。今まで同じ髪型しかしてこなかった浩成にとって、些細な変化でもこれは十分に満足のいくイメージチェンジだった。 「よく似合ってます。元がいいからですね。浩成君かっこいい。どうです?」 「うん……凄くいい。ありがとう」   そんなの常套句に過ぎないとわかっていても、意中の人に「かっこいい」などと褒められれば嬉しくないわけがない。ふわふわと浮かれ気分で、鏡の中にいる生まれ変わった自分を見つめる。満足げな浩成の顔のすぐ横に寄り添うように、楓真が頬を寄せ微笑みかけた。   最後にお勧めのスタイリングをレクチャーしてもらい、会計を済ませる。ただの一人の客とスタイリストという関係でしかないはずなのに、まるで友達にでもなった気分だった。  勇気を出してここに来て良かったと、大満足で浩成は家路についた。  結局は下心があって近付いたのが楓真の「彼」に見透かされているような気がして、それっきりあの美容院へは行かなかった。それでも公園を通って帰ることは毎日続けた。  施術してもらいながら楽しく会話した幸せな記憶を大切にしながら、遠くから楓真を見つめる日々。  またいつもと同じ日常に戻っていった──

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