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50 涙
「え? ちょっと……」
時折現れる楓真の姿を盗み見しながら帰宅する毎日をどのくらい続けていたのだろう、すっかり当たり前の行動になっていたある夏の日のこと、ずっと声もかけず、ただの通行人に徹していた浩成も見て見ぬ振りも出来ずに楓真に声をかけてしまった。
「大丈夫ですか?」
「え……ああ、はい」
いつものようにベンチに座っていた楓真は、突然の浩成の姿にビクッと驚いたように体を強張らせた。
薄暗い街灯が照らしていた楓真の口元が赤くなっているのが見える。見るからに怪我をしている様子の楓真に、浩成は動揺を隠せなかった。
近付いたら嫌でもわかる殴られたような血の滲んだ痣。痛々しい頬に、手首にぐるっと囲むようについた赤い痣のような痕。明らかに何か暴行を受けた後のような楓真の出立ちに声が震える。
「その怪我……」
「あ、大丈夫……です」
楓真は浩成のことなどすでに忘れてしまっているのだろう。いきなり話しかけられたことに不信感を丸出しにして、警戒した面持ちで浩成を見ている。
「大丈夫じゃないでしょ! 何かあったんですか? 血が出てる……」
口の端からチラリと見えている血の跡は、時間が経っているのか既に固まっているようにも見えた。それでも何もせずにはいられず、浩成は鞄からウエットティッシュを取り出すと楓真の口元にそっと当てた。
楓真の痛々しい姿を見ているだけで、辛そうで涙が溢れそうになる。何があったのか、誰にやられたのか、聞きたいことはたくさんあった。それでも浩成の言動に何も言わず、されるがままでいる楓真にこれ以上何と声をかけたらいいのかわからなかった。
「ありがとう……ございます」
楓真は怪我をしている口元を押さえている浩成の手を取り、そっと離す。手首のそれも見られたくないのか、片方の手で覆い隠した。
楓真が心配で思わず声をかけ、勢いで体に触れてしまった。気がつけば楓真の隣に腰掛けている自分に気がつき、オロオロと様子を伺うことしかできない。突然話しかけ、こんなことまでしてしまってどう思われただろうか。一度きりの客なんてどうせ記憶にはないのだろうから、これが楓真にとっては初対面ということになる。何と声をかけたらいいのか考えあぐねていると、小さく鼻を啜るような音が聞こえた。
「嘘…… 浩成君じゃん……」
楓真は目から涙を落としながら、浩成の顔を見て力無くヘラっと笑った。浩成は楓真に気づいてもらえたことの嬉しさよりも、今目の前で痛々しく笑顔を見せる楓真の事が心配でしょうがない。そもそも今日は楓真の勤務する美容院は定休日のはず。一日休みのはずなのに、こんな時間に何でこの公園にいるのだろうか。ほんと、何やってるの? 俺も何をやってるんだ? と、浩成は楓真の涙を見てますます混乱するだけだった。
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