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57 穏やかでいられたなら……

 出て行くと言ったところで、今の楓真には行くあてもなかった。とりあえず仕事を見つけ、今まで貯めていた貯金を崩せば何とかなりそうだとは思うものの、実際行動に移せるのは先になりそうだった。 「千晃……放して」 「やだ。楓真がキスしてくんなきゃ放さない」  顔を上げ悪戯っぽく笑う千晃に、ため息を吐きながら顔を寄せた。仕方なしに軽く唇を合わせるだけのキスをすると、千晃は満足そうに両手を離した。 「楓真、ご飯ごちそうさま。相変わらず美味かったよ」 「…………」 「いつもありがとうな」  先程の泣きそうな顔が嘘みたいにいつも通りの千晃に戻る。そんな千晃にじっと見つめられれば、無意識に緊張が走り体が固まった。長く刷り込まれてきたようなこの感覚に、思わず楓真は視線を逸らした。 「ほら、こっちおいで」  膝に乗れと促され、楓真は渋々千晃の膝に跨るようにして腰を下ろす。  記憶を失う以前の千晃は楓真に感謝の言葉をかけることもしなかった。「いつもありがとう」なんて言葉だって違和感しかない。当たり前のように用意された食事をとり、美味かったなんてただの一度も言ったことがなかった。楓真は初めての感情に胸の奥がジワリとし、胸に顔を埋める千晃の頭頂部を見つめながら、最初からずっとこんなふうにお互い穏やかでいられたらよかったのにな、と少し寂しく思った。 「おい……尻、触んなよ」 「何で? やろうぜ」  千晃の手がいやらしく腰を撫で、尻に触れる。そもそも自らこんな格好で跨っているのだから触れられても文句は言えない。気持ちが冷めてしまったことを自覚した今、千晃の手が服の中に忍ばせられても楓真はその気にはなれなかった。 「なあ、脱げよ……」 「嫌だ。しないし」  吏紀に飽きたら帰ってきて、腹も満たされた今、今度は楓真を抱きたいと迫る。「動物かよ……」と、思わず溢してしまうくらい、楓真から見た千晃は勝手極まりない男だった。 「ん? 何か言った?」 「何も……って、やらねえよ、離せ……」 「やだ……優しくするからさ、久しぶりに抱かせろよ。ベッド行こ? 愛してるよ、楓真」  久しぶりも何も、たかだか三日四日空いただけの事。調子良く「愛してる」なんて言われてもなんとも思わず、こうやって迫られることに危機感を覚える。 「おっ、おい!」  千晃は楓真を抱えたまま、いとも簡単に立ち上がり寝室まで歩き始める。その意外な力強さに楓真は降りることもできずに、そのままベッドまで運ばれてしまった。 「やだ! 待って……おい! 嫌だって言ってんだろ」 「何だよ楓真、そんなこと言うなって」  強引なのも今に始まった事ではない。無理やりに服を脱がそうとする千晃に抵抗しながら、いくら拒否したところで千晃は自分のしたいようにする男だ、と思い出した。

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