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65 抑えがたい感情

 記憶を失うほどの怪我──  あの時、店で吏紀と揉めた。きっかけは些細なことだったと思う。それでも楓真にとってこの時点で感情が爆発してしまい止めることができなかった。全く仕事とは関係のないプライベートなことで仕事中に吏紀と揉めることなど、店長である千晃も店内にいた手前とんでもなく最悪な事態なのはわかっていた。それでも積りに積もった複雑な感情を抑えることなどこの時の楓真にはできなかった。  この時には千晃に対する気持ちも既に冷めていた。だから自分を下に見ている吏紀の態度が余計に許せなかったのだろう。予約の客も控えていたのに、感情に任せて店を飛び出してしまった。  浮気ばかり。もう無理だ、やっていけない。日々のストレスに限界を感じ、千晃に別れを切り出そう……そう決意をした矢先の出来事だった。  しばらくいつもの公園で座り込んでいた。浩成も来なそうだったのもあり一人帰ろうと歩き出す。いつものように浩成に話を聞いてもらいたかった。否、こんな状態で会っても酷く苛立ったごちゃごちゃな感情をぶち撒けることしかできないのがわかるから、会えなくて正解だったと、楓真は自嘲的に一人笑った。  歩道橋の上でゆっくりと歩きながら眼下を流れていく車のライトの明かりをぼんやりと眺める。走り去る車列を目で追いながら、みんな大切な人や家族が待つ幸せな場所へと帰っていくのか……なんて羨ましく思った。今から一人家に帰っても誰もいない。千晃の帰りを待ち、別れることを伝えなければならないのは辛かった。  いつからこんなふうになってしまったのだろう。  ずっと千晃と一緒に幸せな日々が続くものだと思っていたのに、何がいけなかったのだろう。  考えたところで答えなど出なかった。 「あぁ、でもな……」  楓真はふと足を止め、我にかえる。我慢ならなかったとはいえ仕事を放棄して飛び出してしまい、みんなに迷惑をかけてしまった。今頃になって冷静さを取り戻し後悔した。千晃に別れ話をする以前に、勝手な行動をとってしまったことは謝らないといけない。自分の未熟さが情けなかった。  戻ろうか、どうしようか、と迷いながら足を進める。階段に差し掛かった時、突然背後から肩を掴まれ驚いて振り返った。 「え……吏紀?」  そこにいたのは吏紀だった。  じっと楓真のことを見ているだけで何も言葉を発しない。暗くてよく見えなかったけど、そこにいるのは生身の人間ではなくまるで蝋人形が立っているように感じた。  今まで見たことのない感情の消えた顔。  見知らぬ人間の笑顔の仮面をつけたような、何とも言い表せないその表情に楓真は恐怖を覚えた。 「楓真君、バイバイ……」  そう呟いた吏紀は、表情も変えずに突然楓真を突き飛ばした──

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