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68 もう一度だけ……
記憶を失い、そして今になってその記憶が全て戻った楓真──
一気に複雑で恐ろしい記憶の情報が頭の中に雪崩れ込み、ことの展開に気が動転し最早正常な判断ができなくなっていた。足の拘束が解けた今、千晃の元から逃げ出すにはこの窓から外に出るしかないと、モヤモヤする頭でボーッと考える。
「──頑張れば解放されるよ」
吏紀の言葉が楓真に優しく囁きかける。嫌な思いをして千晃と対峙するよりも、この場から一人で逃げ出してしまった方が楽だし容易い。
楓真は別れるつもりだったと話を切り出した直後の千晃の様子を思い返す。物分かりの良さそうな顔で楓真を見ていた。それでこの現状が千晃の答えだ。楓真を眠らせこの部屋に閉じ込め、はなから話し合いなどする気はないのだとわかる。
「そうだよな……どうせ千晃は俺の話なんかちゃんと聞かないし……」
寝室の窓は一ヶ所だけ。カーテンを開け、窓もめいいっぱい開口するとヒュウっと冷たい風が頬を擽った。楓真は心地の良い風を感じながら、その窓から少しだけ顔を出した。
千晃の住むこの部屋に、半ば強引に転がり込んで同棲を始めた。自ら積極的にアプローチするほどに大好きだった人。長く過ごしてきたわりに、窓から覗く景色を楽しむことなど一度もなかった。
「……綺麗なもんだな」
それほど高くもない階だけど、日も落ち周りの建物の明かりが灯ると大袈裟でなくキラキラと輝いて見えた。
しばらくの間、楓真は窓の外を眺める。街の灯りといつも通る道。あの道を何度千晃と並んで歩いただろう。付き合い初めの頃からの千晃との思い出がまるで走馬灯のように頭を巡った。
「初恋、俺の中で千晃が一番だったんだけどな……」
段々と関係がおかしくなっていった。初めこそ千晃が全てだったものの、薄々おかしいと感じ始めた。でもそれを認めるのが怖くて仕方がなかった。ずっと目を背け、自分は愛されているのだと思い込んでいたのを浩成が目を覚まさせてくれた。
「何やってんだろう、俺は……」
歩道橋から突き落とされ、記憶を失ってしまったばかりにこんなことになってしまった。きっと浩成が助けてくれたのだろう。でなければ目が覚めた時に浩成の元にいた理由がない。
「でも結局は全部俺のせいなんだよな」
現実を認めたくなくてずっと目を瞑ってきた報いだ。全ては楽な方へと逃げていた自分が招いたこと……浩成はもちろん、千晃や吏紀にも迷惑をかけてしまった。言いにくくても、もっと早くに千晃に自分の気持ちを伝えていればきっとここまでのことにはなっていなかっただろう。
「ほら、今も俺はこうやって現実から逃げようとしてる……」
窓の外の柵に手をかけ、半身を乗り上げる。寝室のこの窓にはバルコニーなどは付いておらず、ただ転落防止の柵が嵌められているだけ。乗り越えたところでどこかに続いているわけでもない。吏紀の言ったような「窓から逃げ出す」という行為は不可能だった。
「ふふ……ここからどうしようってんだよな」
眼下にはマンションの青々とした植え込み。窓の横の外壁部分には配管が一本続いているのが見える。少し下がれば外壁に足場になりそうな数センチ程の出っ張りも見えるけど、こんなものは気休めにもならない。
「あーあ、もうどうでも良くなってきた。俺が全部悪いんだ……」
楓真は自棄になり、さらに窓の外へ体を投げ出す。
「でも……もう一度だけでも浩成君に会いたかったな。ありがとうとごめんねって、言いたかったな」
目の前に広がる夜景が滲んだ──
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