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74 本当の恋人に/吏紀の思い
あの「すべての始まりの日」から、俺はどうかしていたのだと思う。
この感情はもうどうにもできないのもわかってる。
落ちるところまで落ちたのだ──
見知らぬ男に呼び止められた。
吏紀は腕を掴んで離さないその男の顔をどこかで見たことがあると気がついた。
「楓真を突き落としただろ」
あの時楓真に駆け寄っていた男。千晃の異常な執着心を膨らませた原因のストーカー男。後者は吏紀が千晃に適当に吹き込んだ嘘なのだけど、男が言う「突き落とした」というのは本当のことだった。あの時吏紀は殺意をもって楓真に手を出した。店でなじられ飛び出した楓真を、不機嫌を隠すことなく千晃は「連れ戻せ」と吏紀に命じた。さも吏紀が悪いと言わんばかりに……
吏紀もすでに限界だった。
飛び出した楓真に追いついた時には、自分の前から「消えてくれ」とそんな思いでいっぱいだった。
千晃には楓真はいらない。楓真が側にいることで千晃の執着はどんどん酷く、おかしくなっていく。千晃の視線の先には俺一人がいれば十分なのだと本気で思っていた。
本当なら千晃と付き合っていたのは自分なんだ、と、吏紀にとって楓真は煩わしい存在でしかない。
突き落としたこと、あの事故のことは千晃には黙っていた。自分が手を出したことなど言わなければわからない。何ならあのストーカーのような男が楓真をどうにかしたのだということにもできる。吏紀は都合の良いことを並べたて、千晃の荒れた心に取り入り距離を縮めた。
抱いてくれるなら楓真の代わりでも構わなかった。望むことを全て叶えてやりたいと心を殺し、乱暴な言動も傷ついた故仕方がないこと、それを受け止められるのは自分しかいないのだと吏紀は千晃に尽くしていた。
楓真と同棲中も千晃は吏紀と体の浮気を繰り返していた。機嫌が悪い時や不安な時、千晃は吏紀をも酷く抱く。千晃がそれで満足し、安心するならそれでよかった。楓真と千晃の情事に交ざることも、吏紀は千晃のことが好きだから問題はない。千晃の言いなりになり、好きでもない男に奉仕させられている楓真を見るのは嫌悪感が湧いたが、それでも千晃が大切にしているものを汚しているという現実には興奮していた。
千晃は弱い人間なんだ。
強くあたり自分への愛情が確かなものかを確認していなければ不安になってしまう可哀想な人。
俺なら、そんな狂った愛情でも受け止められる。楓真のように今更愛想を尽かして逃げたりしない……そんな思いが吏紀の中で膨らんでいく。
あの男がここから楓真を連れ去ってくれれば、千晃はもう自分のものだ。
傷心する千晃にずっと俺が寄り添ってやる。
そんな思いを抱えて吏紀は千晃のいる店に戻った──
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