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第9話
部屋を後にしたエィウルスは、月を見上げた。
自分がしたことに実感が沸かなかった。
男を、抱いた。
いや、果たしてあれは、男だったか。
見上げた月の様に白い肌も、長く黒い髪も、耳元で囁く声も、女のものでもなく、男であったのかさえ、あやしい。
目を瞑れば、先程まであった悪夢が消えていた。代わりに、己を求めるあの唇と腕が、眼前に纏わりつく。
エィウルスは、桶に貯めた水を、勢い良く頭から浴びた。
その様を、遠く回廊からディーグが見ていることなど、気付くこと無く。
一夜を境に、しばらく狩りの令が下されることがなかった。
エィウルスは安堵しているようだったが、ディーグには気にかかることがあった。
負傷した者がいるとは聞いていないのに、血の香りが不意に漂うことがあった。すると必ず、エィウルスが寝台を抜け出し、どこかへと消えてしまうのだ。
慎重に跡をつけても、いつの間にか闇に紛れ、消えていた。
ディーグは、ある疑念を抱いていた。
幼い頃から過ごすこの城の中で、唯一、知らぬ場所がある。
探そうにも、存在は知っていたが、どうしても辿り着けない。
レグニスの寝所である。
「まさか、な…」
エィウルスの背中を見失い、舌打ちをしたところで、ディーグは笑った。
何のために、そんなところへいくのか。
ようやく次の狩りの出立が決まったのは、珍しく夜だった。
狩りの対象である吸血達の力を掌握できない夜は、できるだけ避けるのが決まりとなっていた。
「どういうつもりだろうな、主のやつ。なあ、エィウルス」
狩りの為の装備を身に纏いながら、ディーグはエィウルスに声をかけた。だが。
「エィウルス?どうかしたのか?」
装備と、外套をすでに纏ったエィウルスは、窓の外をぼんやりと見ていた。
「らしくないな、どうしたんだよ。なあ、エィ…」
呼びかけても返答を寄越さぬその肩を掴めば、エィウルスは素早い動きでその肩の手を振り払った。
「っ…?…おい?大丈夫か」
詫びるディーグの顔を見るなり、エィウルスは正気に戻った様だった。
「あ、あぁ。大丈夫だ。すまない…」
「緊張してるのか。暫く狩りも無かったからな。用意も済んだ、いくとするか」
その肩を抱いて、部屋を後にする。いつもの様に、ディーグは笑った。
だが、その瞳には、焦りを秘めていた。
エィウルスの瞳が、群青色から、紅に変わっていたのだ。一瞬、こちらを見たエィウルスの瞳は、獣へと変じていた。
二つの心臓と呼ばれる者の中に、紅の双眸を持つものなど、聞いたこともなかった。
城の門を出る際に、見知らぬ顔があることにディーグは気付いた。
黒い髪の、色の白い男である。
馬に乗り、先頭を進んでいた。
「なあ、あんな奴、いたっけ」
ディーグは傍を歩く者に声をかけた。
「知らないのか。最近レグニス様より令を賜り参謀となった男だ。名は、バルという」
「参謀、ね。いつの間に。…バル…か、ん、バル…?」
どこかで聞いたような名前だな、とディーグは首を傾げた。
それは、本来、名前ではなかったような、気がした。
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