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獣 8

 「いやや。・・・そう言うたらどうすんの?」  僕は言い返す。  吊られてる身で言うてもなんかアレやけど、もう僕も肋骨と鼻を折られて泣きながらゴメンナサイ言わされていた中学生やない。  3日寝込んだわ。  まあ、あの時は確かに僕か悪かったけどな。  そこは反省しているけどな。  でも、兄ちゃんにとやかく言われることはない。  ちゃんと学校卒業するし、アイツとのこともちゃんとして一緒に暮らすんや。  誰にも邪魔させん。  「お前・・・」  兄ちゃんがギリギリと歯ぎしりする。  めちゃくちゃ怒ってる。  でももう恐ない。   僕かて強なってるんやで。  恐ない。  「よう言うた・・・覚悟はええな?」  兄ちゃんが低い声で囁いた。  それは甘やかしているような優しい声にさえ聞こえた。  兄ちゃんが僕のスタジャンの襟首掴んだまま、手をさらに振り上げた。  ぐいん  身体が振り回される  自分の身体が逆さまになるのを感じた。  このまま地面に叩きつけるつもりや。  何ちゅう馬鹿力やねん。    僕は一瞬でスタジャンのチャックを下ろす。  両腕を上げる。  スルリとスタジャンが脱げて、僕は地面に抜け落ちた。    スタン、着地する。  兄ちゃんの手の中にはスタジャンだけが残る。  振り回していた重さを突然失い兄ちゃんはおもわず身体のバランスを崩した。     そこへ僕は回し蹴りを放つ。  左の肝臓へ向かってだ。  兄ちゃんは化け物や。  それでも肝臓は人間の急所や。  入ればしばらく動けんなる。  ついでに肋骨も折ってやる。  兄ちゃんにやられたことは納得しとる。  アレは僕が悪い。  でも、やり返せるならやり返したかったんや!!  僕の蹴りは綺麗にのびていく。  だが、やはりといったらアレやけど、まぁ甘ない。  兄ちゃんは脚を上げて僕の蹴りをカットした。  キックボクサーは腕で蹴りを基本受けない。  腕よりはるかに筋肉がある脚での蹴りの威力は凄まじい。  腕で受けていれば、いずれ腕がやられてしまうからだ。  ハイキック以外の蹴りは基本、脚をあげてカットする。  きちんとカットすれば、脚がいたむこともないのだ。  「キックボクサー相手に蹴りとはオレも舐められたもんやな」   兄ちゃんが僕のスタジャンを地面に叩きつけたながら言った。  それ、お気に入りなんやけど。  僕はくるりと背を向けた。  まあ、無理やてわかってたし。  上手くいったらラッキーくらいののりやったし。  走る。     「何にげとんや!!」  鬼の形相の兄ちゃんが追いかけくるが大丈夫。  逃げ切れる。  僕のが速い。     兄ちゃんとまともにやり合うつもりはない。  あっちのが体重もパワーも上や。  そうそうやられん自信はあるけど、長くかかったらどんどん体力削られてこっちが弱らされる。  不利や。  それに兄ちゃんとやり合う理由もない。  一応いってることは間違ってへんしな。  自分を棚上げしとるだけで。  就職、進学はともかくアイツとのことはちゃんとしたかったしな。    僕は駅前の階段を駆け上がっていく。  道路の上にかかった駅とショッピングモールをつなぐ歩道橋だ。  僕は歩道橋の手すりをのりこえ、歩道橋の下にある屋根付のバス停に飛び降りようとした。    バス停の屋根から道路におりて逃げたら、はいこれでもう終わり・・・。    僕は逃げ切れることを確信した。    ひょい、と宙に向かって飛んだ僕の腕を、ぶっとい手が掴んた。  重力が逆転する。  宙から歩道橋へと連れ戻された。  嘘や。  兄ちゃんはこんなに速く走れん・・・。  驚く僕に、響く低音の声が面白そうに言った。  「・・・よう、久しぶりだな」  その笑顔を見て観念した。  逃げられへん。  この人からは無理や。  兄ちゃんよりデカい男。   2メートル近い男。    兄ちゃんとは違って下品さを隠そうともしてない、凶暴さを隠そうともしてない。  その高級スーツは堅気の臭いはまったくしない悪趣味さだ。  でも、楽しそうに笑っているその笑顔はどうにもこうにも・・・。  人を引きつける魅了があった。  兄ちゃんの師匠だった。    荒削りな顔立ちはハンサムとは言えなかったけど、微笑まれたら思わずこちらも笑い返したくなる顔やと僕は思う。  でも、今はいくら微笑みかけられても僕は笑い返す気分や無かった。  掴んだ腕を離して、兄ちゃんの師匠は面白そうに僕を見た。  いくつなのかいつみてもわからへん顔や。  30でも40でも50でもとおりそうや。    「大きくなったね」  師匠は親戚のオッサンぽいことを言い出した。  「前会った時は中学生だったかな」  師匠はこの辺の人やないから言葉が違う。    僕は返事する気にはなれなかった。    兄ちゃんがやっとおいついてきた。  兄ちゃんが遅いんやなくて、僕が速いねんけどね。    「こんのアホぉが!!」  兄ちゃんが僕に殴りかかるの師匠か手で制した。  兄ちゃんが言うことを聞くのはこの人だけだ。  「なあ、弟くん。コイツは常に自分のことを棚に上げるけど、言っていることはいつだって間違ってはいないよ」   師匠が言った。   そこが余計にムカつくねん、と僕は思ったが言わない。     この人の太い腕、太い足、部厚い背中、スーツなんかに押し込められないその身体のごつさはどんな凶器よりも、人を圧倒する。  僕は理由もないのにこの生き物に逆らってはいけないとの本能に従う。  そう、この人に逆らう理由はないのだ。   今のところは。  むしろ僕は兄ちゃんに仕事しないかと誘われた時、引き受けることを一瞬考えた程度にはこの人のことは好きなのだ。  僕は俯いた。    「もうちょいちゃんと家には帰るようにする・・・」     僕は師匠に言った。      ちゃんとしてからや。  卒業してちゃんと自立してからや。  それは僕も思ってたんや。  でも、セックスしたかったんや!!   一緒にいたかったんや。  「まだ高校生やのに女のとこに入り浸って・・・妊娠でもさせたらどないするんや!!」  どこかで子供の一人や二人は生まれてるかもしれない下半身のだらしない兄ちゃんが僕に説教した。  「妊娠はない」  僕はそこは自信をもっていう。  むしろ妊娠させたいわ。  「いや、油断したらダメだぞ」   僕と同じ年頃に女の子を妊娠させて子供が生まれてしまった師匠が言ったのでリアリティはあるが、僕にはそれはない。  ちなみに若すぎたため結局上手く行かず、師匠はその人とは別れて子供の養育費を送り、たまに会っているらしい。

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