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Ⅷ 君には渡さない⑨
意外に普通だ……
無理矢理、強引に連れ込まれたホテル内のフィッティングルームで着替えさせられたのは、スーツだった。
(真川さん、リーマンプレイがしたかっのか)
ネクタイをほどいて、きっちりした身だしなみを乱していくのに萌える……というやつか。
当のネクタイは真川さんの手で、丁寧に俺の襟元に結ばれてしまった。
「あの、ありがとうございます」
俺だって会社員だ。ネクタイくらい自分で結べると言ったけど、主張は受け入れてもらえなかった。
見立てた物は、最後まで面倒みさせろ……って、よく分からない意見を通されてしまった。
でも確かに、俺が結ぶよりも綺麗だ。
ちょっと悔しいけど。
(やっぱり真川さんは毎日、テレビで見られている人だな)
俺が結ぶと、ふわっとしてしまう。
真川さんが結んだネクタイはカッチリしている。
(仕事のできる男になったみたいだな)
「また笑ってる」
「あっ」
内心を気づかれていないかと、なんだか恥ずかしい。
「笑ってろ。可愛いから」
「やめてくださいっ」
「どうして?」
「だって……面白い顔だから」
調子が崩れる。
いつもは面白い顔だってからかうクセに。
急に可愛いなんて言って……
やっぱり、あなたはズルい。
「ほら、できたぞ」
ネクタイを整えてくれた真川さんの手が離れるのに少し名残惜しさを感じながら、目の前の姿見に視線を移した。
「わぁ……」
感嘆の声を上げてしまっていた。
鏡の中の俺は、まるで別人だ。
俺なのに、俺じゃない。
真川さんは『可愛い』と言ってくれたけど、スーツのお蔭か、凛々しく見える。
「君の肌の色には、この色が似合うな」
濃いベージュ色に、黒に近い色のネクタイ。こんな色合い、自分じゃ選らんだ事ない。
スーツが上質というのにも助けられているけど、印象ってこんなにも変わるんだ。
「分け目は……こうした方がいいな」
長い指が前髪を梳いた。
「うん、やはりこうだな」
前髪を直してくれた真川さんが、俺の後ろに立つ。
真川さんは黒いスーツ。ネクタイは濃い茶色に白い水玉模様で遊び心を出している。
(真川さんのネクタイの色と、俺のスーツの色、ちょっと似ている)
偶然だろうけど。
もし意識して選らんでくれてたのなら、ちょっと嬉しいかも。
(さすがにこれは、俺の思い過ごしだよな)
恥ずかしいから、考えるのやめよ……
鏡の中で、すぅっと真川さんが目を細めて。まるで愛しいものを見つめるような仕草で……胸がこそばゆい。
ドキドキ、ドキドキ
鼓動が胸を打つ。
「あの。ホテルの中に、こんなレンタルスペースがあるなんて知りませんでした」
優しい沈黙に耐えきれなくなったのは、俺の方。
「以前にも利用した事があるんだ。急にスーツが入り用になってね」
「でも、真川さんはいつも予備を持ってるんじゃ?」
「雨に降られたんだ。それもゲリラ豪雨だ。予備のスーツまでビショビショだ」
「アハハ」
「おい、失礼な奴だな」
「だって。真川さんも人間らしいところがあるんだなぁ……って」
テレビの中でも、俺の前でも、いつも完璧な真川さんだから。
(完璧じゃないあなたを知れて嬉しいんです)
俺だけの真川さんができたみたいだ。
「アハハハ」
緊張した心音よりも、大きな笑い声が突いて出た。
「たくっ、失礼な。俺をサイボーグだとでも思ってるのか」
「もしかして真川さん、拗ねてるんですか」
俺しか知らない真川さんが、また一人増えた。
「拗ねてない」
鏡の中で目を逸らした真川さんは、ちょっぴり可愛い。
「面白い顔が少しはマシになったんだ」
「酷い!」
やっぱり、この人口が悪い。
「先に仕掛けたのは君だ。可愛くなったと言ったんだから、許せ」
「あっ」
言い返そうとした声が、行き場を失った。
この人の不意討ちは心臓に悪い。
(まだ左胸、ドキドキしてる)
「行くぞ」
不意に伸びた大きな手が俺の手を握った。
「少し汗ばんでいる」
「ごめんなさい」
こんな手、握らせてしまって。
「そうじゃない。緊張してるんだな。こんな思いをさせてしまって、すまない」
真川さんの手がぎゅっと強く俺の手を包んだ。
全部あなたのせいだ……
素直になれないのも。
素直に、あなたの後を付いていってしまうのも。
(全部)
あなたのせい。
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