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突然のボディタッチにも、松葉瀬は動じない。
「ねぇ、センパァイ? 今日はもう帰りましょうよぉ? ねっ、ボクにご飯奢ってくださぁい? ボク、ラーメンでガマンしますから……ねっ?」
「あははっ。仕事がひと段落したら、考えておくね」
言外に『今日はお前に構うつもりがない』と、松葉瀬は伝えたつもりだった。
しかし、矢車は一切引かない。
「じゃあ、センパイのお仕事が終わるの待ちまぁす」
そう言って、矢車はあろうことか、松葉瀬の隣に座ったのだ。
椅子のキャスターを転がし、矢車は松葉瀬に近寄る。
距離を縮めてきた矢車に対し、松葉瀬は囁いた。
「テメェは仕事ねェんだろ。サッサと帰れ」
それは、近距離にいる矢車にしか聞こえない声量。
松葉瀬の本性が見られて楽しいのか、矢車も声を弾ませながら応対する。
「ボク、オメガだから期待されてないんですよ。だから、残業するほどの仕事量がそもそもないんです」
「テメェの勤務態度に難があるんだろ。性別のせいにするな、死ね」
「やだぁ、パワハラァ」
矢車は口角を上げたまま、松葉瀬の顔を覗き込む。
「でもボク、従順な後輩ですよぉ? だから……センパイのお手伝い、シたいなぁ?」
それはおそらく、仕事ではない。
どういう意味の【お手伝い】なのか、松葉瀬は気付いている。
けれど、やはり興が乗らない。
松葉瀬はフラットファイルを一冊、矢車に手渡した。
「矢車君。ここに綴ってある書類のコピー……十部ずつ、お願いできるかな?」
女性職員なら赤面してしまうような、見事すぎる営業スマイル。
そんな笑顔を向けられた矢車は、応戦するように笑顔を浮かべた。
「喜んでっ」
書類を受け取り、矢車はコピー室へ向かう。
……ちなみに。
矢車が受け取ったフラットファイルに綴られている書類は、いくつものホチキスが使われている。
ホチキスを外し、コピーをした後、もう一度ホチキスをし直さないといけない。
松葉瀬はそれが面倒で、コピーすることを先延ばしにしていたのだ。
(二度と戻ってくんなよ、クソガキが)
それは仮面をかぶったままの松葉瀬ができる、小さな憂さ晴らしだった。
仕事に区切りをつけた松葉瀬は、鞄を持って立ち上がる。
――サッサと帰って、すぐにでも寝てしまおう。
そう思っていた松葉瀬を止める声は。
「ねぇ、センパァイ? この後はお寿司にしますぅ? 焼肉屋さん? それとも……シンプルに定食屋さんですかぁ?」
残念ながら、あった。
事務所には、松葉瀬と矢車……二人だけ。
だからこそ松葉瀬は、素の状態で返答する。
「外食なんかしねェっつの、ドアホ。サッサと帰って寝るわ」
「えぇ~! ボク、大嫌いなセンパイにコーヒー淹れたり、書類のコピーとったりしたのにぃ?」
「それ以上に邪魔してきたの忘れたのか、鳥頭」
淹れられたコーヒーは、むせ返るほど甘くされていたし。
頼んだコピーは倍率の調整が全然駄目。
松葉瀬の怒りは収まるどころが、膨れ上がっていたのだ。
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