31 / 76

4 : 3

 いつか、こんな目を向けられる日が来ると。  幼い頃から松葉瀬は、分かっていたつもりだった。  松葉瀬にとって、初めて出会ったオメガは矢車だ。それ以外のオメガを、松葉瀬は話に聞いたこともなかった。  だから、松葉瀬にとって【普通のオメガ】は矢車になりつつあったのだ。  アルファである自分に怯えるどころか、自ら寄ってきて。  警戒するどころか、懐いてきた。  だからこそ、松葉瀬は勘違いしてしまったのだ。 (あのド淫乱が【普遍的なオメガ】だなんて、笑えねェわ)  終業時間を迎えた事務所で、松葉瀬は背もたれに寄りかかり、小さく息を吐く。 (オメガの基本がアイツなワケ、ねェのにな)  基本的なオメガが矢車だと。  矢車の反応こそが、普通なんだと……松葉瀬は、誤認した。  ……実際には、茨田こそが正しいのだ。  オメガにとってアルファは……オメガの意思と関係なく、オメガを屈服させられる。  そういう、絶対的で恐ろしい存在。  そんな存在が近くにいるのなら、どう考えたって脅威にしかならない。 (ンなこと、アルファとオメガってモンを知った時から、分かってたことだろォが……ッ)  自分が、オメガという存在の平穏を脅かす存在だと思われる。  そんなこと……松葉瀬には容易に想像できていた。  ――けれど……【想定】と【体験】は全く違う。  茨田から向けられた、警戒したような……怯えたような、目。  あの目が、松葉瀬はどうしたって忘れられなかった。 (クソッ! ふざけんなよ、クソが……ッ!)  威圧的で、他者と距離を取り、周りを毛嫌いしていた松葉瀬だが。  それでも松葉瀬は……茨田を、人として尊敬していた。  『アルファなんだから』と言ってくることが、なかったわけではないけれど……それでも、尊敬していたのだ。  仕事ができて、人当たりもよく……自分がオメガになってしまったことを素直に告白できる。  それほどまでに、強くて立派な上司。 (そんな奴でさえ、オメガになった途端……俺を、恐れたんだ)  茨田は課内でも信頼が厚く、正しくて、常識的なベータだった。  ――つまり、茨田が松葉瀬に向けた【恐怖心】は。  ――あまりにも普遍的で、正当な……【畏怖】だ。  だからこそ松葉瀬は余計に悔しく、空しい気持ちになった。 「それじゃ、ボクはお先に失礼しますぅ」 「やっちゃん、お疲れ様~」  不意に。  松葉瀬の耳に、矢車の声が届く。 「はぁい、お疲れ様です、係長」  矢車は鞄を持ち、係長に笑みを浮かべて挨拶をしていた。  そんな矢車の姿を視界に入れると同時に。 「――センパイ?」  松葉瀬は、椅子から立ち上がり。  矢車の華奢な腕を、思い切り……掴んでしまっていた。

ともだちにシェアしよう!