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人前で、松葉瀬から矢車に声をかけたことは……一度も、ない。
ましてやこのように、腕を掴んだりするだなんて……論外だ。
「……あれ? もしかしてボク、なにかミスしてましたかぁ?」
突然腕を掴まれた矢車は、飄々とした態度のまま松葉瀬を見上げている。
が、やはり矢車も驚いているらしい。どことなく、目が泳いでいた。
「えーっと……まさかまさかの、残業コースですかねぇ? コピーの倍率ミスってましたかぁ? それか……さっきメールで送ったデータ、数字の半角と全角が統一されていなかったりぃ? それとも……」
なにも言わない松葉瀬を、どう思ったのか。
「……書庫の整理、とかぁ?」
矢車は、助け舟を出した。
松葉瀬の様子が、どこかおかしい。矢車には、そのくらいしか分からない。
だが、それだけ分かれば十分なのだ。
「……矢車君。帰ろうとしてたのに、ごめんね」
「いえ、大丈夫ですけど……今の中に、答え……ありましたかぁ?」
ニコリと、矢車が笑みを向ける。
「ボク、センパイのお役に立てるなら何でも頑張りますよぉ? モチロン、見返りは求めちゃいますけどねぇ?」
――笑顔。
――矢車は、笑顔なのだ。
(――ふざけんなよ、クソビッチ……ッ!)
茨田はきっと……もう二度と、笑顔を向けてくれないだろう。
もしかしたら、松葉瀬の部署異動を申請するかもしれない。
どれだけ頑張っても、松葉瀬と茨田は……元の上司と部下には、戻れないのだ。
――なのに、矢車はどうだろう?
いつも笑みを浮かべて、ベータに対する態度と変わらずに、アルファである松葉瀬に接してきて。
そもそも、矢車が松葉瀬以外の誰かにご飯を強請ったりしているところを……松葉瀬は見たことがない。
――だからこそ、知りたくなかったのだ。
「書庫の整理、が、正解。……ちょっと、必要な書類があるんだけど。もしも予定がないなら、探すの……手伝ってもらえたり、する、かな?」
松葉瀬は、仕事熱心な男。
そして矢車は、今から帰宅しようとしていた……いわゆる、暇人。
ならば、効率を考えた結果……矢車に仕事の協力を仰いだって、なにもおかしくはないはずだ。
「モチロン、大丈夫です! 探し物は得意ですよぉ?」
きっと矢車は、書庫で松葉瀬に犯されると思っているだろう。
それでも、拒否をしない。
――松葉瀬のことを、拒絶しないのだ。
(クソ、クソッ! 何で、何で今なんだよ……ッ!)
矢車は、超がつく程の変人で、変態だ。
松葉瀬がアルファであることを煽り、からかい……番になろうとする、頭のおかしな後輩。
それでもいつだって……矢車は、松葉瀬を本気で『アルファだから』と責めたりしなかった。
――変人で、変態で、どうしようもない絶望中毒。
――けれどその根底にあるのは。
――【優しさ】なんじゃないか、だなんて。
(コイツが懐いてきたことは、俺にとって……救いだったんじゃないか、なんて……ッ!)
そんなこと、僅かしかない可能性だとしても。
松葉瀬は欠片も、気付きたくなかったのだ。
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