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5章【突発的に輝かれても、静観的に】 1
あのカミングアウトから、二週間。
茨田はよく、矢車に声をかけていた。
元から、茨田と矢車は特別仲が悪かったわけではない。だから、そこまで驚くことでもなかった。
ただ、面白がっているベータたちは……『オメガ同士だからだろう』と、噂している。
そして松葉瀬も、そう思っていた。
(茨田……また、あのクソビッチと一緒に居やがるのか)
目線だけで、松葉瀬は矢車を追う。
松葉瀬はあの日から……できるだけ、茨田と接点を作らないようしていた。
なので、茨田が近くに居るときは、矢車に近寄らない。
そうしていると、驚くほどに……話す機会が作れなかった。
(あっちからも、声……かけてこねェし)
そもそも、松葉瀬から矢車に声をかけたのは……前回の出来事が初めてだ。
普段なら呼ばなくても、矢車は松葉瀬に寄って来る。
なのに、あの一件以来……矢車は松葉瀬に、近寄って来なかった。
(……さすがに、この間のは……)
書庫での出来事を思い出し、キーボードを叩く指が止まる。
腹癒せと、八つ当たり。いつものセックスと、なにも変わらない。
けれど松葉瀬は……矢車を『オメガだ』と、罵った。
そして……未遂とはいえ、番にしてしまおうともしたのだ。
(別に、謝罪とか……そんなんじゃ、なくて……)
何て声をかけたらいいのか、分からない。
そもそもなにを言いたいのかすら、松葉瀬には分からなかった。
その結果、二週間も放置をしているのだ。
(……まぁ、アイツがいなくたって……相手には困らねェか)
矢車が離れていくのなら、それは当然だろう。
事実、矢車が入社する前は他の女性職員で憂さ晴らしをしていたのだ。
だったら、その頃に戻るだけ。
(……クソッ、あのチョロビッチ……相手はオメガかもしれねェが、結局は男だぞ? なにデレデレしてんだよ、情けねェ)
矢車が茨田と親睦を深めていても……松葉瀬にとっては、なにも不利益がない。
はず、なのに。
松葉瀬は気付けばいつも、矢車と茨田のことを考えていた。
(……何で俺が、あんなサイコイカれヤローのことで悩まなきゃならねェんだよ……)
気持ちを切り替えるために、松葉瀬はコーヒーカップに手を伸ばす。
すると、その手に。
「センパイ。コーヒーの前にぃ?」
「……?」
書類が、触れた。
「カワイイ後輩が作った書類、確認してくれませんかぁ?」
――矢車だ。
書類の束を持った矢車が、松葉瀬に近付いて来た。
コーヒーカップを掴もうとした手に、無理矢理書類を握らせて。
「……あ、あぁ、うん」
「えぇ~? センパイが仕事中にボ~っとしてるなんてぇ? 珍しいですねぇ? 悩みごとですかぁ?」
いつも通りの、甘ったるい声。
矢車は距離をグンと縮めて、松葉瀬に擦り寄ってきた。
何のことを考えていたのか……矢車は、気付いているのかもしれない。
だとしたらこの言動は、完全な煽り。
「少しだけ考えごとをしていたんだけど、もう解決したから大丈夫だよ」
「ぷっ。……ふふっ、そうですかぁ? なら、良かったぁ」
書類を受け取り、松葉瀬はにこやかに微笑む。
(後で殺す)
そう、内心で毒づきながら。
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