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 矢車は『パーソナルスペース? そんな言葉、知らないです』と言いたげに、松葉瀬と距離を詰める。 「この表、頑張って作ってみたんですけどぉ……よく分からないところがあってぇ……?」 「近いよ、矢車君」 「やんっ。……いきなり耳元で囁いちゃダメですよぉ、センパイ」 「あははっ、ごめんね」  内心で『クソビッチが』と罵りつつ、松葉瀬は矢車が持ってきた書類に目を通す。  と言っても、表に打ち込まれた数式は紙を見たって分からない。 (何のつもりだ、このクソガキ……?)  そう訝しんでいると。  カサリ、と……書類以外の紙が、手に触れた。 (……普段、仕事の質問なんて俺にしてこねェクセに)  書類はブラフだと、松葉瀬は気付く。  触れたメモ紙をそっと受け取った後、松葉瀬は笑顔で矢車を見上げた。 「紙だとよく分からないから、後でデータを添付してメールで送ってくれないかな?」 「助かりますぅ! もう、何回やってもエラーしか出なくてぇ」 「あははっ。数式を打ち込むのって、難しいよね」  会話を早々に終わらせ、松葉瀬はすぐさまメモ紙に視線を落とす。  カサリと音を立てたメモには、短く……こんな一文が、書かれている。 『焼き肉でいいですよ』  もう一度、矢車を見上げた。  けれど矢車は、ニコニコと笑みを浮かべているだけ。  メモ紙に書かれたことへは、一切触れない。 「どうかしましたかぁ?」 「いや」  こちらだけ動揺するのは、面白くない……というのが、松葉瀬の本心。 「メール、早く送ってね」 「ふふっ、はぁい」  クルリと、矢車は踵を返す。  ヒョコヒョコと揺れる髪を眺めた後、松葉瀬はもう一度、メモ紙に視線を落とした。 (ふざけやがって……)  松葉瀬が矢車を気にしていたことを。  矢車本人は、気付いていたのかもしれない。  そう思うと、尚更面白くなかった。 (可愛くない奴だな。……って、そんなのは随分と前からか)  メモ紙を折りたたみ、後で処分しようとしていた書類の間に挟む。  そしてパソコンに視線を向けると、一通のメールが届いていた。  差出人は勿論……矢車だ。  送られてきたデータを開き、松葉瀬は眉間に皺を寄せた。 (アイツ……数式、滅茶苦茶にぶち壊してるじゃねェか……ッ)  それはわざとなのか、それとも、本気で取り組んでこうなったのか。真相は分からない。  普段の松葉瀬なら、きっと……矢車の仕事なら無視していただろう。  しかし、松葉瀬は腕まくりをした。 (まぁ、今は余裕があるからな……)  急ぎの案件は、なし。  なので松葉瀬は、矢車から送られてきた悲惨すぎるデータの修正に取り掛かることとした。

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