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終業時間から、数分後。
「センパァイ。ボク、お腹空きましたぁ。ねぇ、おねがぁい? どこかご飯に連れてってくださいよぉ? ねっ、ねっ?」
わざとらしいほどのボディタッチを、矢車はしていた。
腕を絡め、上目遣いをし、いつも以上に甘ったるい声。
それら全てのあざとさを一身に受けながら、松葉瀬はにこやかに微笑んだ。
「ははっ。どうしようかな」
「えぇ~っ。センパイのイジワルさんっ」
確かに、矢車は普通の女子よりも可愛いときがある。
だがそれは、他の社員からの評価だ。松葉瀬が向ける評価とは違う。むしろ相違しかない。
(気色悪いんだよ、ブス。いい年した男がなに言ってんだ、恥を知れ)
二人きりならそう言っていたが、生憎とここはまだ職場。しかも、社員も残っている。
松葉瀬はやんわりと矢車を振りほどきつつ、歩き出す。
しかし矢車は松葉瀬に腕を絡めたまま、その歩幅に合わせて歩き始めた。
そのまま、松葉瀬と矢車は仲良く帰宅するのだと。事務所にいる社員が満場一致で考えた。
――そのときだ。
「――ねぇ、二人共。……もしかして二人は、番……なのかい?」
茨田が、あの告白以来初めて……松葉瀬に、声をかけてきた。
二人は足を止め、茨田を振り返る。
――だったら、何だ。
――違うなら、何て言いたいんだよ。
矢車によって募っていた苛立ちが、茨田の言葉で大きく燃え盛る。
激しい苛立ちと、小さな自己嫌悪。その二つに苛まれた松葉瀬は、咄嗟に言葉を返せない。
そんな松葉瀬に代わり、口を開いたのは……矢車だった。
「――茨田課長? 見て分からないんですかぁ? 今、ボクがセンパイに迫ってるんですよぉ? だから、課長にセンパイは渡しませぇん」
「「は?」」
松葉瀬と茨田の声が、ピタリと重なる。
矢車はしっかりと松葉瀬の腕を掴み、微笑んだ。
「今、ボクたち……すっごぉく大事な時期なんです。デリケートってやつですよ。だからぁ……あんまり、茶化さないでくださいねぇ?」
――なにを言っているんだ、お前は。
そう言いたくなったと同時に、松葉瀬はある可能性に気付いた。
(――まさか、庇われた……のか?)
オメガである自分が迫っているのだから、このアルファは渡さない。
そして、同じオメガである自分がこんなに密着しているのだから、このアルファは怖くもないと。
捨て身の牽制と、捨て身の擁護。
そういう意味合いで言ったのかと、松葉瀬は感じ取った。
(……惨め、だな)
アルファである自分より、立場が弱いオメガ。
しかも自分は先輩で、矢車は後輩だ。
そんな、守るべき対象である筈の矢車に……松葉瀬は何度も、救われている。
(『迫ってる』……ねェ)
矢車と茨田が、なにかを話していたが……実りの無い雑談だろう。
松葉瀬は空いている方の手で、頭を掻く。
(この薄らトンカチとなら、いっそ、本当に……)
そう思いかけた時、強い力が松葉瀬の腕を引いた。
「センパイ? ボク、値段の書いてないお寿司屋さんに行きたいなぁ?」
どうやら、茨田との雑談は終わったらしい。
松葉瀬はすぐさま、愛想笑いを浮かべた。
「今日は焼き肉の気分だから、却下だよ」
「ちぇ~っ」
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