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 数十分経っても、二人は戻ってこなかった。 (仕事、全然手につかねェ……)  自分以外の男に、矢車は今……微笑んでいるのかもしれない。  そう考えると、黒いモヤが松葉瀬の心を覆った。  姿が見えないだけなのに、まるでこの世界に独り……取り残されたような気分になる。  ――不安で、そばにいてほしいだなんて。 (番でもねェクセに、何なんだよ、コレ……ッ!)  たかが依存心がここまで感情を揺さ振るだなんて、松葉瀬は知らなかった。  気を紛らわせようと目を通していた書類を持って、立ち上がる。  その書類は、数十分前に茨田から渡されたものだ。  確認を終えた書類を返そうと、松葉瀬は茨田のデスクに向かった。 (茨田の奴……デスクくらい、綺麗にしろっつの)  茨田のデスクは、お世辞にも整理整頓がされているとは言えない。  いくら仕事ができるとしても、これではいい印象が台無しだ。  手に持っていた書類をどこに置こうかと、松葉瀬はデスクの上を眺める。  そこで、ふと。  ――茨田が健康診断後に渡されたであろう封筒を、見つけた。 (……後天性のオメガ、ねェ?)  そんな診断……松葉瀬は一生されることがない。  だから、いったいどのようなことが書かれているのか……松葉瀬は興味本位で、封筒に手を伸ばした。  普通の健康診断結果とは違う、見覚えのない一枚の紙。  おそらくこれこそが、オメガの診断書だろう。  人の運命を変えてしまうにしては、あまりにも薄すぎる紙だ。  その文面に目を通し、松葉瀬は。 (――は?)  ――愕然とした。  小難しい言葉が並べられているその紙は、確かに……第二の性について、記されている。  しかし、記載されている内容が……本人の告白と、違うのだ。  難しい言葉を咬み砕き、分かりやすくまとめるのなら。 【後天性 アルファ】  診断書には、そう書かれているのだ。 (……待てよ、こんなの、おかしいだろ……ッ? 何で、そんな嘘……ッ?)  茨田はずっと、首に布を巻いている。  自分がオメガだとカミングアウトしたのは、間違い無く茨田自身。  アルファよりも、それでいてベータよりも立場の低い……オメガだと。 『あ、そう言えば……ボク、茨田課長からお薬貰ったんですよねぇ』 『ヒート抑制剤です』  矢車が言っていた言葉を、思い出す。 (胸騒ぎがする……ッ)  最近、矢車に近付いていたのは……オメガ同士だからだと、そう、思っていた。  しかし、もしも……もしも茨田が、オメガじゃないのなら? (さっきの、俺に対する嫌味は……何だったんだ……ッ?)  空想の枠を越えない、仮定。  ――もしも茨田が、矢車のことを気に入っていたとして。  ――矢車と距離を詰めるためだけに、自分の性別を偽ったとしたら。  ――社内で唯一のアルファである、松葉瀬を悪者に仕立て上げようとしたのは。 (――最初から全部、作戦だったとしたら……ッ?)  診断書をデスクにたたきつけ、松葉瀬は走り出す。  向かう場所は、一つだけだ。 (あの、ピーマン頭がッ! 本能とかで気付け、ボケナスッ!)  全てが、杞憂の可能性だって当然ある。  それでも松葉瀬は、走り出さずにはいられなかった。 『他人の目なんて、どうでもいいじゃないですかぁ?』  こんな形で、その通りになってしまうだなんて……松葉瀬は、考えてもいなかった。  ――その日、松葉瀬は初めて。  ――他人の目を気にせず、がむしゃらになった。 6章【連鎖的に解明される、犠牲的な後輩への想い】 了

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