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 いつだって、矢車は笑っていた。  オメガとして生まれたことを、嘆かず。  むしろそれが自分の美点かのように、笑顔で。  矢車は社員と……そして、松葉瀬と……関わっていた。 (あれは、全部……虚勢、だったのか)  今までの言動が。  表情も、思想も、なにもかも。  それらが全て、虚勢だったとしたら。 (コイツは今まで、いったい……どんだけ、傷ついてきたんだ……ッ)  松葉瀬には、オメガの苦悩は想像しかできない。  百パーセント、全て……理解することは、一生できないのだ。  それは、松葉瀬がオメガではないから。  そしてそれと同時に……松葉瀬が、アルファだからこそ。  松葉瀬はどうしたって、矢車のことを理解してあげられなかった。 「ふ、ぅあ……あ、っ」  声を押し殺し、矢車は何度もしゃくりあげる。  初めて体の関係を持った時でさえ、矢車は泣かなかった。  性交に使わない器官で男を受け止めるのは、楽なことではない。  松葉瀬は、矢車が悲しみや苦しみから流す涙を……初めて、見たのだ。 (きっと、正解は……今すぐ、咬んでやることだ)  矢車のうなじは、傷一つない。  白く、美しく……アルファである松葉瀬を、本能的に誘う。  あまりにも官能的なその皮膚から、松葉瀬は視線を逸らせなかった。  ――けれど、松葉瀬はどうしても……咬んであげられない。 「……悪い。今は、まだ……ッ」 「セン、パイ……っ」 「分かってる。テメェが、どんな気持ちで言ってきたのかとか……お前が、どれだけ精神的に参ってるのかとか、ちゃんと……俺なりに、分かろうとしてるつもりだ」  うなじを視界から消すために、松葉瀬は矢車を強く抱き締める。 「今日中には、答えを出す。……だから、もう少しだけ……時間を、くれ」  うなじを咬まれ、番になること。  それはオメガにとって、相当な負担だ。  だが、アルファにとって――松葉瀬にとってもその行為は、同情なんかでしてあげられるほど、簡単なものではなかった。  保身に走った松葉瀬を、矢車は責めない。  矢車も、松葉瀬の気持ちを……矢車なりに理解しているからだ。 「ひとまず、だ。……今日は、俺の目が届く範囲にいろ。それで、定時になったら……一緒に帰るぞ」 「……トイレに行きたくなったら?」 「誘え」 「連れションとか……ふふっ。センパイ、子供みたいですねぇ?」  体を離し、松葉瀬は矢車の頭を見る。  すると矢車が、顔を上げた。 「……テメェの便所に付き合ってやるんだろォが」  もう一度、松葉瀬は矢車の頭を乱暴に撫でる。  松葉瀬のことを『子供みたい』と笑った矢車から、視線を逸らす。 (泣いてるテメェの方が、よっぽどガキくせェっつの)  そんな言葉だけは、何とか飲み込み。  松葉瀬は矢車が落ち着くまで、慣れない手つきで頭を撫で続けた。 7章【虚無的で悲観的な思想は、客観的に見て滑稽か】 了

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