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8章【意思表示は、可及的速やか且つ自主的に】 1

 定時を過ぎ、松葉瀬は矢車のデスクへ近付いた。 「矢車君。良かったら、途中まで一緒に帰らないかい?」  松葉瀬が近寄ると、矢車は体を小さく震わせる。  顔を上げた矢車の目は、うっすらと腫れていた。 「……わぁ、嬉しいなぁ」  ――明らかに、無理をしている。  矢車は無理矢理、笑みを浮かべていた。  誰がどう見ても作り笑いだと分かる表情に、周りの職員が声をかけてくる。 「矢車君……今日、どうかした? 何か、途中から元気なかったけど……」  いつも元気に職員たちをからかっている矢車が静かだったら、気にする者も現れるだろう。  松葉瀬は笑みを浮かべて、矢車の代わりに対応した。 「俺もそれが気になっていて……だから、俺で良ければ話を聴こうかなと。……矢車君は俺にとって、大事な後輩なので」 「松葉瀬さん、優しいですね!」 「私も松葉瀬さんに心配されたぁい!」 「あはは。ありがとうございます……で、いいんですかね?」  立ち上がった矢車が、松葉瀬の隣で黙り込む。 (相当、参ってるんだな……)  いつもなら、軽口の一つや二つを叩くくせに。  矢車はただただ黙って、俯いている。 「それじゃ、お先に失礼します」  矢車を連れて、松葉瀬は歩き出す。  後ろをついて歩く矢車は、終始……なにも語らなかった。  松葉瀬の家に着き、リビングへ入る。  荷物を床に置いた松葉瀬は、矢車にどんな言葉をかけていいのか悩んでいた。  しかし、先に口を開いたのは矢車だ。 「――ボク、振られる感じですかぁ?」  肩から掛けたバッグの紐を、矢車は強く握っている。  俯いたままの矢車が、どんな表情をしているのかは分からない。  ただ、その声は……いつものような、明るいものではなかった。  ――ただひたすらに、渇いている。 「……振ってほしくなったのか」 「焦らされるのがイヤなんですよ。……てっきり、帰り道でサッサと言ってくれるかと思ったのに、そのままなにも言わず家に連れて来られたんですもん。何だか、とっても惨めな気持ちです」 「『一緒に帰る』って言っただろォが」  立ち尽くす矢車へ、松葉瀬は近寄った。 「センパイ。ボク、割と本気で焦らされるのイヤです。センパイと同じで、せっかちなんで」 「誰がせっかちだ」 「あはっ。今はケンカする気分じゃないので、スルーしまぁす」  そう言い、矢車は自分の胸ポケットへ手を伸ばす。  そして……一つの錠剤を取り出した。 「セ~ンパイ。……コレ、なにか分かりますか?」 「……風邪薬、か? それとも……ヒート、抑制剤……?」 「ブッブー」  ようやく、矢車が顔を上げる。 「正解はぁ……茨田課長から貰った【ヒート促進剤】でぇす」  ――茨田から貰ったのは、抑制剤じゃなかったのか。  その驚きの後に、松葉瀬は疑念を抱く。  ――どうして今、そんなモノを? ……と。

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