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彼と何気のない日々と

 母が自殺未遂をした事で、僕への虐待は明白な事実となった。だからあの日、母が自らの首筋にナイフを引いたその時が、僕たちの最後の時間となった。それから、母と僕は法的な制約のもと引き離されることとなった。僕には隆文さんという番が既にいたから、あっという間にそれらの手続きは終わってしまった。番の関係に親子の縁など微塵も敵わないのかと思うと酷く虚しさを感じる時もある。  たまにそうやって過去に起きた経緯を淡々と思い起こしながら、ベッドの上でぼんやりとする朝がある。今日もそんな日だった。ドア越しに隣のリビングで隆文さんが朝食の準備をしている気配を感じる。だから、もう少しこのままぼんやりとしていて、隆文さんが僕の名前を呼びに来てくれるまで待っていよう。今日は二人の休日が重なった貴重な日だ。僕たちは同じ病院に勤めていても全くの別棟にいるわけだから、日々を共にする時間はかなり限られている。  隆文さんに引き取られてから数年は、帰宅がまちまちな彼を兎に角玄関まで迎えに行くことが僕の好きな時間だった。くたくたに疲れた隆文さんが、ニコッと微笑んで「ただいま、透。」って言ってくれる瞬間が好きだったからだ。「ただいま」「おかえり」のやりとりは僕にとっては憧れであり、同時にずっと自分には縁のないものだと思い込んでいた。お互いの生活リズムがあまり合わなくなった今でも、「ただいま」と「おかえり」は必ず言うことになっている。僕が眠ってしまった夜には、隆文さんがそっとキスを落として「ただいま」と言ってくれるから、朝起きた僕は、隣で眠っている隆文さんに「おかえり」と言ってキスのお返しをしてから家を出る。 「透、ご飯できたぞ。」  いつものルーティンを思い返してにまにまとしていたら、隆文さんが寝室に入ってきた。微かに香ってきたコーヒー。腕を伸ばせばそのまま僕を抱き起こしてくれる。僕はもういい大人だけど、隆文さんに抱っこされるのも好きだ。だから、ベッドの上で隆文さんと向かい合って抱きついたままでいる。すぐに手を離さない僕の背中を、彼は柔らかく撫でてくれた。 「怖い夢でもみた?」 「え...?ううん。」 「今日は雅史とアオくんの家に行くからな。」 「うん!久しぶりに二人に会えるから嬉しい。」  へらりと笑えば、何となく心配そうに顔を歪めた隆文さんがいた。僕が皺の寄った彼の眉間を指で解していたら、そっと指を絡められた。暖かな体温がじんわりとそこから広がっていく。 「おまえは、出会った時からそうやって笑って隠す癖がある。だから心配する。」 「....そうだね。でも、今日はほんとに大丈夫だよ。久しぶりに僕たちだって二人で居られるんだから。」 隆文さんはするりと僕のパジャマの中へ手を滑り込ませた。そして、確かめるように指先で、丹念にかつての火傷の跡を辿っていく。歪だけど僕にとっては大切な傷跡を、同じように宝物みたいに彼は触れてくれる。彼のその繊細な指先も好きだ。少しだけ伏せられた慈愛に溢れたその眼差しも好きだ。 「ふふっ。くすぐったい。」 お返しに彼の首筋を撫でる。ぴくっと彼の肩が震えた。ここ、結構弱いことを僕は知っている。それでも彼は、僕の傷跡を辿ることをやめない。 「僕のここ、好き?」 僅かに顔をあげた彼と目が合う。それはすぐに優しく細められた。 「好きだよ。おまえを形作ってきた全てを愛しているよ。」  ふわりと香る芍薬。  初夏が、もう、すぐそこまで来ていた。 ーーー  春に妊娠が発覚したアオの悪阻はかなり重く、やっと落ち着いた頃には六月を迎えていた。嘉月先生も心配していたから、今日は看護師として経過観察も含めて遊びに行く。蒼白いをとうに通り越した顔色の悪いアオの姿が、今でも目の前に浮かぶ。今日は、少しでも血色を取り戻してくれているといいけれども。 「透、準備できたか?」 「うん!今行くよ。」 玄関に向かうと、片手にスーパーの袋を持った隆文さんがいた。 「わっ!こんなに買ってたんだ!」 「ああ、確かトマトしか食べられないんだろう?」  袋の中に入っていたのは大量のトマトだった。 「うーん、悪阻もだいぶん良くなったって聞いてるから、トマトだけってこともないとは思うけど。ある分には喜んでもらえるんじゃないかな?」 「そうか。それならいいんだけどさ。」 「アオは料理上手だし、これを機に色んなトマト料理を教えてもらおうかな!」 「ははっ。うちのトマト料理のレパートリーも増えそうだな。」 さりげなく差し出してくれた隆文さんの手を取って、僕たちは家を出た。

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