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彼と何気のない日々と 2

「いらっしゃい」  相変わらずあまり笑わない雅史が、俺と透を迎え入れてくれた。 「佐伯さん、久しぶり!アオはキッチンかな?」 俺の背後から透が顔を出した。 「透くん、元気そうでよかったよ。ああ、あの子は君たちが来てくれるのを心待ちにしていたようだよ。」 「わぁ〜!ほんと?うれしいな!」 無邪気に笑う透に釣られて、雅史も微笑んでいた。 「隆文、例の件....」  ひと足先に透がアオくんのいるリビングへと向かったことを確認してから、雅史が困ったように聞いてきた。 「ん、もちろんだ。.....サプライズなんだろう?」 聞けば、僅かに視線を逸らして頬を緩めた親友が、目の前にいた。前言撤回。おまえはよく笑うようになったな。  雅史との付き合いは高校生の時からだ。俺が透と番契約をして真っ先に報告したのも彼だった。その日、「なあ、運命って信じるか?」と訊ねた時に「まさか。」と素っ気なく受け流した、彼の諦念にも見える態度がずっと気になっていた。透と俺は、恐らく運命の番だ。俺たちから香る芍薬の花がそれを証明している。医者である自分が、こんなにもロマンチックな発想に辿り着くとは思ってもみなかった。逆に、小説家でありながらも酷くリアリストな雅史。俺たちは親友なのに性格も思考もあまり共通する部分はないな、とずっと考えていた。  そんな親友から「アオは運命以上の存在なんだ。あの子と共に幸せになりたい。」と突然電話口で宣言されたのは三日前。全ての話を聞き終えた時、俺は親友の変化を心の底から歓迎しながら、もちろん彼の計画にも協力を惜しまないことを約束した。透にも言っていない雅史との約束は、学生時代に二人でちょっぴり羽目を外しすぎた、儚いながらも刺激的なかつての感動を呼び覚ますのには充分だった。 ーーー 「一色さん、透。今日は遊びに来てくれてありがとう。それに、こんなに沢山のお土産も、嬉しい。」  普段は雅史とアオくんが囲む二人の特別な食卓に、今日は透と俺も混ぜてもらう。アオくんは早速、差し入れのトマトを見て喜んでくれた。今の彼の頭の中は沢山のトマトレシピで埋め尽くされていそうだ。 「アオ!今日の夕飯にトマトレシピを幾つか教えてくれない?」 待ちきれんばかりに身を乗り出して聞く透に、アオくんも笑っていた。その顔色は非常に良かったから、彼の身体もだいぶん落ち着いてきたのだろう。 「それに、この紅茶もとっても美味しいね!」 「あ、それはラズベリーリーフティーって言うんだ。渋くない?」 「ううん、そんなに気にならないかな。」 料理全般にあまり詳しくない俺は、透のこういった話し相手にはなれない事が多い。だから、アオくんと話している透を見ていると、彼の新しい一面に気づかされる事が多い。 「なあ、隆文。俺も料理や紅茶に関してはさっぱりなんだ。だから、きみたちの都合が良い時でいいから、また遊びに来てくれないかな?」 同じことを感じ取ったのか、向かいの雅史にそっと耳打ちされた。 「ああ、もちろんだ。俺も助かる。.....そうだ、そろそろ」 「ああ。」 紅茶談義に盛り上がる二人を横目に雅史を促せば、彼は音も立てずにそっとその場をあとにした。 「あれ?雅史さん、何処に?」  途端に不安そうな表情を浮かべるアオくんに「きっとすぐに戻ってくるから大丈夫だよ。」と声をかけた。隣の透も状況が掴めていないため、心配そうに俺を見上げてくる。だから、テーブルの下でそっと彼の手を繋いだ。 ーーー  五分もしないうちに雅史はリビングへと戻ってきた。その手に一枚の紙を携えて。彼は優雅に席に着くと、その紙を食卓へ丁寧に置いた。 「....婚姻届?」 アオくんが大きな目をもっと丸くさせて言った。 「ああ。アオ、順番が色々と逆になってしまったが、俺と結婚してくれないか?番としてだけではなく、きみの夫として、きみとこれから生まれる新しい命を幸せにしていきたい。俺の家族になってほしい。」 「う、うぅ、はい....!僕と、この子の家族になってください....!」 ぼろぼろと泣いてしまったアオくんを、佐伯が力強く抱きしめた。その姿を見て、俺も胸に込み上げてくるものがあった。隣からすすり泣く音が聞こえると思ったら、透も泣いていた。 「よかったね、アオ。よかったね。おめでとう。」 「ありがとう。透、ありがとう。」 暫く、俺たちはその温もりに浸っていた。 運命を超えた幸福の一場面を知った瞬間であった。 「それでなんだが、きみたち二人に証人になってもらいたくてね。隆文には事前に相談していたんだが、透くん、きみも俺たちの幸せの証人になってくれないか?」  透ははっと顔をあげた。そして満面の笑みを浮かべて承諾したのだった。 「もちろんです!」 ああ、その笑顔は俺だけに見せて欲しいんだけどな、なんて少し場違いな嫉妬をしてしまうくらいには、美しい笑顔だった。 「あ、でも僕、印鑑ないや。」 「それなら、俺が用意した。」 シャツの胸ポケットから、透がいつも使っている印鑑ケースを取り出す。 「そっか、隆文さんは知ってたもんね。」  それからは、まるで神聖で厳かな儀式のような時間だった。雅史が仕事道具で馴染みのある薄藍色の万年筆を取り出した。そのボディが、大切なパートナーの瞳の色であることにも薄々気が付いていた。万年筆の先が、滑らかに親友の名を刻み込む。そして、その深度を確かめるかのように慎重に印鑑が押された。続いてアオくんが、緊張した面持ちで「アオ」の二文字をその万年筆で刻み込んだ。 「やはり、きみの名前は美しいな。きみを体現しているようだ、この字も。」 アオくんへ雅史が優しく囁いていた。彼の生い立ちが悲惨だった為に、アオくんには苗字がない。だから、隣に印鑑を押すこともなかった。親族から縁を切られた苗字のないオメガが、婚姻届に印鑑を押すことは義務付けられていない。その傷を包み込む言葉だった。少し震えたアオくんの手から、俺に万年筆が渡される。久々に緊張したが何とか遂行できた。最後に透だったが、可哀想なほどにカチコチになっていた。思わず笑ってしまった。 「もう〜!笑わないで!僕、真剣なんだから!」 透は一文字一文字を丁寧に、彼の几帳面さを表すように生真面目な文字を刻み込んでいく。最後に押された「七瀬」の印鑑。 ――七瀬 透(ななせ とおる) 心の内で、その清らかな名前を呼んだ。 そして、彼が「一色 透」になる日を思い描いた。

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