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第85話
樹の指摘に俺の胸はどくりと嫌な音をたてた。
蔵元の言葉にはっきり反論できなかった理由。
唯希を産んでからずっと考えてしまうことがある。
樹は本当に幸せなのかと。
樹が唯希や冬といる時に浮かべる笑顔が偽物じゃないことくらい、付き合いの長い俺は分かっている。
けれど、もし俺が唯希を身ごもらなければ、もし樹がそんな俺と結婚しなければ。
樹には全く違う、もしかしたら今より幸せな人生が待っていたかもしれない。
樹は俺と結婚する時、俺のことをずっと好きだったと言ってくれた。
しかしそれはどちらかといえば肉親の情愛的なものだったんじゃないだろうか。
樹が俺にプロポーズした理由だって本当は同情に後押しされた結果ではないのか。
もし樹が俺と結婚せずに、子育てもしないで普通の大学生として生活を送っていたなら、その中で運命の番に出会ったり、可愛い女の子と恋に落ちたりもあったかもしれない。
俺は樹の人生からそんなチャンスを奪ってしまった。
樹の腕の中の温かさを知った今、それを捨てることなんかできないくせに、俺は時々酷い罪悪感にかられた。
先ほどの蔵元の言葉は俺の胸にわだかまっていた想いを酷く揺さぶるものだった。
何も答えずにいる俺をじっと見つめていた樹だったが、ため息をつくと視線を逸らせた。
「俺は真とちゃんと理解し合っていると思っていた。それは俺の幻想だったのかもな」
「そんなっ、そんなことない」
樹の言葉にショックを受けた俺は、思わずその逞しい腕に縋った。
樹は俺の体を押し返し、距離をとる。
樹にそういう態度をとらせたのは自分なのに、俺は酷く傷ついた。
「冷えてきたな。風邪をひかないうちに戻ろう」
俺は何か樹に声をかけたかった。
それでも言葉が喉に貼りついたように出てこない。
樹が俺に背をむける。
その指先からは血が流れ落ち、コンクリートの床に黒い染みを作る。
俺はふと本当に血を流しているのは樹の手ではなく、心なのではないかと思った。
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