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第8話 暗雲(5)(*)

「アルファか? そんな匂いも気配もしなかったが」 「っ違います! 彼とはそんなんじゃありません……っ」  鋭く言い放ったつもりだったが、声が滲んだ。自分の弱さが嫌になる、とハナは開いていた拳を再び握った。 「彼、ね」  揶揄するように繰り出される言葉を打ち砕きたくて、言葉を継ぐ。 「あ、兄の紹介で家庭教師に来てもらっている、人です」 「ベータか」 「だったら何ですか……っ」  見下すように断じるテラを、今度こそ許せないと思った。送ってくれたことは感謝している。が、車内でこんな児戯に及び、その上、知られたくなかった大事な人の名前を吐き出してしまった。何もかもが最悪だった。 「あなたはそうやって、何でもバース性のせいにするけれど、世界には、もっと多様な価値観が溢れているんです……っ」 「ベータに惚れるオメガがいるように、か?」 「牧野さんはいい人だ……!」  カッとなって言い返す。嫌いだった。想い人を揶揄されることも、思わず口走ってしまった自分の愚かさも。自分自身の至らなさを笑われるならまだ我慢ができるが、牧野のことを言われるのは耐えられなかった。 「いい人、ね。ま、いい」  テラは、ハナから身体を離すと、じろりと上から下まで凝視した。それから、不意に車のドアの鍵が開く音がした。 「希少価値のある男性オメガのきみが、実らぬ恋に身をやつしているとは、愉快だ」 「っ……帰ります!」  もう一瞬もテラと同じ空間にいたくなかったハナは、シートベルトを外すと、思いきりドアに体重をかけ、車外へとまろび出た。 「シャツのボタンを留め忘れるなよ」 「さようなら!」  テラの言葉に捨て台詞を吐き捨て、振り向きもせずに車のドアを乱暴に閉めた。  そのままドアの鍵を開け、家へと入ると、しばらくの間、怒りのあまりに息をすることができなかった。  ──嫌な奴。 (……あんなに嫌な奴なのに、匂いはすごく魅力的だ)  テラのフィアットが去っていく音を、家の中で聞きながら、ハナは震える身体を抱きしめた。  テラの匂いは暴力的なまでに、ハナに影響を与える。  ハナは、その日、シャワーを浴びながら、初めて熱を抑えられず、密かに自慰をした。  その際、牧野でなくテラの名前を呼んだ自分を、ハナは、しばらく消化できなかった。

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