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第14話 その日(1)

 土曜日。  約束の時間に間に合うように起きると、ハナはシャワーを浴び、歯を磨いてテラを待った。  そわそわしながら居間に降りていくと、珍しく仕事が一段落した明が、弛緩していた。少し緊張気味のハナを見ては、「何かあるのか?」としきりに訊き、「何度もフィッティングに行ってるのに、どうした?」と揶揄するように笑うので、ハナは閉口して、玄関先に避難した。  アプローチの前をうろうろしていたが、なかなか時間がこない。  正門の前で待っていても同じだと思い、歩き出したハナが門の前にたどり着くと、不意に人影が現れた。  その人物は、テラではなかった。  テラなら、銀色のフィアットでくるはずだ。 「ま、きの、さ……」  門柱の影に身を隠すようにして、牧野が立っていた。最寄りの駅から歩いてきたのだろう。正門横の、人ひとりが通れる通用口の電子ロックを、カードキーで解除できず、誰かがくるのを待っていたようだった。ハナを見つけると、皮肉げに唇を曲げ、言った。 「通してくれないか? 明さんに、呼ばれたんだ」  嘘だと直感したが、牧野は当然の権利だという顔で、ハナに命じた。 「鍵を返しにきただけだ。シュレッダーにかけるのも、忍びなくてね」  あの脅迫事件の犯人が判明して間もなく、牧野はハナの家庭教師をクビになっていた。明は牧野を「フィオーレ」のブラックリストに入れ、スタジオ兼ライヴハウス「ピアンタ」にも、ファンの集いのある場所にも、近づけさせようとしなかった。だから、牧野はハナの家にくるしかなかったのだろう。明に逢うために。 「何もしない。だが、きみのせいだ。きみが、あんなことを言わなければ……っ」  思いつめた様子でハナを責める口調に、胸が掴まれる気がした。鍵を廃棄するよう命じられたはずの牧野は、本当に最後の挨拶にきただけかもしれない。  だが、通すことはできない。兄や、テラや、「フィオーレ」の払った犠牲を、無駄にすることはハナにはできなかった。  震えていると、牧野の背後で派手にクラクションが鳴った。  ウィンカーを出した銀色のフィアットが正門の前で停まったかと思うと、中からテラが出てきて、閉じた正門と、牧野の間に身体を入れ、立ちはだかった。刹那、ふわりと大輪の薔薇の香りがした。 「何をしている」  厳しい声で詰問され、牧野はたじろいだ。  ハナを背中にかばい、牧野に対峙したテラは、毛を逆撫でされた獣のように怒っていた。 「わたしの連れに近づくな。きみが何をしにきたのか、知っているぞ」 「は……」 「明に逢うつもりなら、無駄なことだ。もしもハナを巻き込むつもりなら、わたしは、きみを許さない」

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