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第14話 その日(3)

 そして、ある事実に行き当たる。  ──牧野には、きっと、もう二度と逢えない。  ハナは、その時、ひとつの恋が終焉したことを、自覚した。 *  フィアットを駐車スペースに入れると、テラは明に少し用事があると言い、ハナを置いて、勝手知った様子で、家に入っていった。  先ほどの、牧野の件を報告するのだろうと思うと、胸が痛んだ。明に対して、牧野への寛大な措置を求めれば、牧野はプライドを傷つけられたと思うだろうし、それでは周囲に対するけじめがつかない。  ハナは、テラの明への報告を聞きたくなくて、キッチンに非難した。ゆっくり紅茶を入れて、お菓子を用意しているうちに、気持ちが少し落ち着いてきて、どうにか持ち直せそうになる。  明とテラの話が終わる頃を見計らい、ハナはマイセンのティーセットを用意し、居間に向かった。  しかし、ウバのミルクティーにクッキーを添えて、部屋に足を踏み入れた瞬間、バシッ、と凄い音がした。 「兄さ……ん?」  驚いたハナが音のした方を見ると、テラが顔を背けている前で、明が片手を上げていた。 「……きついな」  テラは赤くなった片頬を押さえ、皮肉げな笑みを浮かべていた。  明はというと、野生動物が逆上したような顔をしている。驚いたハナは、紅茶を乗せたトレイをキャビネットの上に置き、二人のもとへ駆け寄った。 「兄さん、いったいどうし……」  しかし、明は、近づくハナをギッと睨み返すと、白い紙切れを胸の前に握り締め、噛みつくような剣幕で怒鳴った。 「お前はこれにサインをしたのか!」 「えっ……?」  驚いて顔を上げるハナに、手を上げようとした明を止め、テラが眉を寄せて言った。 「わたしが強いただけのものだ。彼に責任はない。ハナを怒るのは間違いだ」 「ふざけるな! 強いたにしろ何にしろ、ハナがペンを取ったことは事実だろ! サインにどんな責任が伴うか、知らない年でもあるまいに……っ!」  明はそのまま握りつぶした白い紙を、床へと叩きつけた。  ハナがそれを拾い、開くと、流麗な書体のイタリア語が並んでいるのが見えた。一番下に、テラとハナのサインがある。初めてテラの部屋を訪れた時に、書かせられた誓約書だ。 「兄さ……」  何が書かれているのかは、ハナには不勉強でわからない。  だが、聡明な兄には読めるのだろう。あの時のやりとりから、内容が読めなくとも、何が書かれているかは、だいたい想像がつく。ハナは赤面して、誤解を解かねば、と兄の方を向いた。 「兄さん、これは……ちゃんと説明させてほしい」

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