59 / 108

第14話 その日(8)(*)

「じゃ……ぁ?」  その時だった。  今まで慣れていて、あまり感じていなかったテラの香りが、突如、むせ返るような濃度でハナに襲い掛かってきた。 「っ──……?」  ごほっ、と息を吐き出して、それから、まずい、と思った。 「ハナ……?」  涙を流して感情が昂り、気づくのが遅れた。  間違いなく、突発発情の予兆だった。 「テ……ラ、だめ……っ」  駄目だ、と思った時は、既に遅かった。ふわりと甘い、懐かしいような香りが鼻腔に入り込んでくる。薬は、と思い出し、一度、家に帰った時に、玄関に置いた鞄の中だと気づいた。息が荒くなる。動悸がする。視界がグラリと揺れ、突如、それはやってきた。 「ぁ──……っ」  身体を丸め、その衝撃を受け止める。まるで脊髄から脳髄までを一気に逆撫でにされたようだった。脳の奥が痺れて、波が引くと思った頃には、突発発情がはじまっていた。  心臓が破れそうに高鳴っている。  一度もしたことがないのに、たまらなく腹の奥が潤みはじめるのがわかった。 「ん……っ!」  唾液が流れ出て、全身に鳥肌が立ち、目を瞑ると、脳裏に白い光が弾けた。  衝撃を受け止めることにばかり気が行ってしまい、隣りにいるテラのことを、一瞬、忘れかける。 「ハナ? どうし……」  突然、身体を屈めたハナのことを、不審げにテラが覗き込む。  その動きに合わせて空気が攪拌され、強い大輪の薔薇の香りが、車内に満ちた。  同時に、ハナは自分の身体から、常とは違うフェロモンの香りが、解き放たれるようにじわりと広がりつつあるのを感じた。 (だめ、だ……っ)  渇きが酷くなった喉からは、喘ぎ声がかすかに漏れただけだった。 「──突発発情か……!」  ハナの匂いがテラのそれと混ざり、車内の空気が変わる。こんな不本意な状態で、テラを求めてしまうなんて、絶対に嫌だと理性が叫んでいるのに、身体が言うことを聞かない。隣りにいるアルファを受け入れる準備ができたことへの、嬉し涙だか何だか、わけのわからない生理的な涙が、零れ落ちていく。 「は……っ、ぁ……っ」  視界が濁ってうまく働かない。  それでもハナは、どうにかドアを開けようともがいた。  その時、テラが、隣りで呻き、咄嗟に窓を開けた。  が、それぐらいでは最早、誤魔化しきれない甘い匂いが、二人の身体から、発せられてしまっていた。テラは、ハナに向けて指を伸ばす自分の手首を噛むと、やにわに助手席と運転席の間にあるコンソールボックスを乱暴に開けた。  中に、いつも口にする錠剤とは違った種類の、臙脂色のパッケージがあった。

ともだちにシェアしよう!