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第2話

「ええ」  千晶は静かに頷いた。 「私はオメガです」  すっと襟元に手をやり、シャツのカラーを軽く引くと、首筋にフィットする形のネックガードがのぞいた。不用意にうなじを噛まれないように、オメガなら必ずつけているものだ。 「番は……特に持たないと決めているわけではありません。私は……ヒートが軽いタイプのオメガなんです。香りも薄いらしくて、今まで、うなじを噛まれたことがない……それだけです」 「ヒートが軽い……か」  クライエントがふっと笑った。 「いいですね。僕なんて、十五の時に初めてのヒートが来てから、重くなる一方。毎回、自宅の地下に作ったセーフティルームに閉じ込められてた」  たいていのオメガは、ローティーンの頃からヒートの抑制剤を飲み始める。いつヒート期が始まるのか、まったくわからないからだ。抑制剤は何種類も製品化されているが、これといった決定版はないのが実情だ。みな、自分に合った抑制剤と服用法を見つけるまで苦労する。抑制剤でコントロールしきれないヒートを乗り越えるために、オメガを抱える家族が必ず作るのが、セーフティルームと呼ばれる部屋だ。防音が完璧で、鍵は外からしか開閉できないシステムが一般的である。抑制剤で制御しきれず、凄まじい性衝動に苦しむオメガを閉じ込めるための部屋である。ヒート期のオメガは性被害を受ける確率が跳ね上がる。その気がなくても、オメガの香りに引きずられるアルファに襲われてしまう可能性があるため、家に閉じ込めておくしかないのだ。 「……先生、セーフティルームに閉じ込められたことある?」  クライエントが言った。 「外から鍵かけられて……ご飯もろくに食べさせてもらえなくて……わかる? 人間扱いされないんだよ?」 「わかる……とは、言えないと思います」  千晶は正直に言った。 「私の実家にもセーフティルームはありましたし、ヒートの時にはそこに入りましたが、たぶん、あなたほどのつらい経験はしていないと思いますよ」  クライエントは、千晶よりも若かった。たぶん二十歳になるかならないかだろう。  彼は『番』を持つことに失敗したオメガだった。抑制剤は服用していたが、ヒートのコントロールが上手くいかず、通学していた大学内で突然ヒート期に入ってしまった。香りがわからなくても、ヒート期のオメガは性衝動の抑えが利かなくなるため、見ればわかってしまう。彼は集団でレイプされ、その時、複数の相手にうなじを噛まれた。『番』は、基本的に最初にうなじを噛んだ者との間で成立する関係なのだが、ほぼ同時に複数に噛まれてしまうと、細胞レベルの混乱が起きて、うまく『番』の関係が結ばれず、かといって、他の者と『番』にもなれず……といった中途半端な状態になってしまう。こうなってしまったら、まずは血液透析と血漿交換を行い、あとは時間をかけて薬物療法を行って、身体を素に戻すしかない。しかし、それでも戻らない場合もあるのがつらいところだ。 「……いっそのことさ、妊娠すりゃよかった」  彼は投げやりに言った。すさんだ瞳が千晶を睨む。 「そうすりゃ、DNA鑑定で、少なくとも一人は特定できるもんね」  ベータ男性もアルファ男性も妊娠しないが、オメガ男性はヒート期でのセックスに限るが、妊娠し、出産できる身体構造を持っている。しかし、女性ベータや女性オメガと違い、その出産にはリスクが伴う。ほとんどの場合、正常分娩はできず、帝王切開になる。早産も多く、妊娠中や出産後に精神のバランスを崩す者もめずらしくない。 「その一人と『番』になりたいと思いますか?」  千晶は穏やかな口調で言った。 「あなたにとって、『番』とはどんな存在なのでしょう?」 「少なくとも」  彼は異様なギラつきを見せる瞳で、千晶を睨み続ける。 「『番』ができれば、そいつ以外にはレイプされずに済む」  聖マルガレーテ総合病院は、院内に教会を持つ病院である。敷地内に修道院があり、シスターやブラザーが普通に歩いている光景に、千晶も最初は驚いたが、慣れてしまうと、白衣と修道服が並んでいるのに、なんの違和感もなくなる。 「あ、新しいお菓子」  院内にあるカフェで、テイクアウトのコーヒーを買っていた千晶は、後ろから聞こえた声に振り返った。 「お姉ちゃん……」 「職場で、それはなし」  千晶の後ろにいたのは、長白衣のポケットに両手を突っ込んだ女医だった。長い髪を無造作にひっつめ、化粧もほとんどしていないが、顔立ちは整っていて、なかなかの美人である。 「ごめん」  千晶は微かに笑った。淡い桜色の唇から、少しだけ白い歯がのぞく。 「桜庭先生、今、お昼なの?」 「そう。今日は忙しくてね」  女医の名は桜庭美南(みなみ)。千晶の実の姉である。 「緊急の手術も入ったし」 「大忙しだね」 「千晶も……あ」  弟の名を呼びかけて、美南はぺろりと舌を出した。 「桜庭先生」 「僕は先生じゃないよ」  千晶はうっすらと微笑む。 「僕は、ただの心理カウンセラーだよ」  桜庭千晶は、この聖マルガレーテ総合病院で唯一のオメガの心理カウンセラーだ。  ここには、他の医療機関にはない特別な施設がある。それが、通称『薔薇の棟』と呼ばれるオメガ専門病棟だ。  宗教をバックボーンに持つここ、聖マルガレーテ総合病院では、頼ってくるすべての患者を受け入れることが基本だ。扱いの難しさから、一般の医療機関では敬遠されがちなオメガも積極的に受け入れてきた。いつしか、聖マルガレーテはオメガのオアシスと呼ばれるようになり、専門病棟を作ったのが五年前である。  千晶は、大学で心理学を学んだ。オメガに理解のあったクリスチャンの講師に紹介され、ここにカウンセラーとして勤務し始めたのが、二年前だ。 「千晶」  美南がそっと言った。 「どうした? 元気ないよ?」 「……大丈夫だよ」  性被害を受けたオメガのカウンセリングはつらい。いくら手がけても、慣れることはない。そして。 「やっぱり、番を持たないオメガは……だめなのかな」 「千晶……」  紙コップのコーヒーをそっと一口飲んで、千晶はため息をつく。 「もっと……わかってあげたいのに……。もっと……寄り添いたいのに」  美南は美しい弟の肩を軽く撫でた。本当はぎゅっと抱きしめてあげたいところだが、さすがにここは人目がある。千晶は、院内の奥まったところにある薔薇の棟からほとんど出てこないので、美南と千晶が姉弟であることを知らないスタッフが多いのだ。 「あんたは優しすぎるの。カウンセラーなら、クライエントとの間に、きちんと距離を置いた方がいいよ。一体化しすぎると、あんたが壊れる」 「……お姉ちゃん……」  美南はぽんと千晶の肩を叩くと、サンドイッチの入った紙袋をぶんぶんと振り回しながら、勤務する産科外来に向かって歩いていった。 「あ、千晶」  美南はふいに立ち止まり、くるっと振り返る。 「今日、真尋(まひろ)のお迎え頼める?」 「あ、うん。大丈夫だよ」 「よろしく!」  美人女医は、さっと手を振って去っていった。

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