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第4話

 ACT 2 「あっつい……」  今年は猛暑だ。ひどく暑い。外を歩いているだけで、息が苦しくなる。息を吸い込むと、喉から肺にまで熱い空気が流れ込んで、むせそうになってしまう。  重いかばんを抱えて、千晶は予備校の玄関に逃げ込んだ。 「ふぅ……」  ひやりと冷たい空気が頬を包む。首筋がすうっと涼しくなり、額の汗が引いていく。目に痛いくらいの陽射しの中から屋内に踏み込むと、一瞬周囲が見えなくなるくらい視界が暗くなる。幾度か目を瞬いてから、千晶は掲示板に歩み寄った。 「えーと、今日の自習室は……」  高校三年生になって、千晶は予備校に通い始めた。本来であれば、もっと早く通いたかったのだが、家族の反対でなかなか行けなかったのだ。  千晶は一族でただ一人のオメガである。六歳の時、バース診断を受けて、オメガであることがわかってから、家族は腫れ物に触るように、千晶に接してきた。特にヒートが始まる思春期になってからは、完全に千晶を避けるようになっていた。自宅にいる時の千晶は、まだヒートは来ていないのだが、自主的にセーフティルームで過ごしている。食事も一人で摂り、部屋の外に出るのは学校に行く時くらいだ。 「え?」  大学に進学したい……心理学を学びたいと言った千晶に、家族はいい顔をしなかった。  オメガが職に就くことは難しい。いくら抑制剤でコントロールするといっても、やはりヒート期に普段通りの生活を送ることはほとんど不可能だ。オメガを持つ家族は、早く番の関係を結ばせて、厄介払いしたいというのが、正直なところなのである。若く美しく、妊娠が可能なうちに、高い地位にあるアルファの番になって、家を出ていってほしい。それが、オメガを持つ家族の本音なのだ。 「うそ……休講?」  進学したいと望む千晶を救ってくれたのは、姉の美南だった。産科医として、すでに独立していた美南は、千晶の学費をすべて出すと言ってくれたのだ。 『きれいで、その上学歴もあるオメガなんて最高じゃない。世界は広い方が生きやすいよ』  いつも、千晶は美南に助けられてきた。  ベータである美南が、千晶のことを完全に理解するのは、たぶん無理だと思う。しかし、美南は理解しようと努力してくれている。そして、淡い闇にひっそりと沈もうとする千晶を、明るい陽の下に導こうとしてくれる。 「……困ったな」  千晶は、テキストや辞書で重たいかばんを足元に置き、もう一度掲示板を見た。  予備校の掲示板には、その日の休講や教室の割り当てが掲示されている。登録すれば、スマホに通知も来るのだが、登録にはお金がかかるので、千晶は通知の登録をしていない。予備校は、千晶の通う高校と自宅の間にあるので、定期券で通える。もしも、休講になっても、家に帰ればいいだけだ。余計なコストはかからない。 「どうしよう……」  今日の千晶は、予備校で個人授業を申し込んでいた。苦手な科目や強化したい科目で『個人授業』として申し込むと、予備校側が講師を選んでくれて、自習室で九十分の個人授業を受けることができるのだ。  しかし、その講師が体調不良で休んでしまい、千晶の個人授業は中止になっていた。 「……自習だけして帰るしかないね……」  人見知りの千晶が、勇気を出して申し込んだ個人授業だった。受験に必須の英語を強化したくて、思い切って申し込んだのに。 「まぁ……こういうこともあるよね」  予備校に入学を申し込む時には、当然のことながら、バース性を知らせなければならない。アルファとオメガを隣り合った席に座らせるわけにはいかないからだ。  もしかしたら、オメガである千晶と狭い自習室のブースに入ることを、講師に拒否されたのかもしれない。千晶がふっとため息をついて、自習室だけでも使わせてもらおうと、教務課の前にある端末に向かい、自習室の申し込み変更をしている時だった。 「君」  後ろから、ふいに声をかけられて、千晶はびくりと肩をふるわせた。 「君、もしかして、小林(こばやし)講師の個人授業を申し込んでいた人?」  はっきりとした、よく響く低い声だった。 「その自習室、小林講師の担当室だよね」  千晶はそっと振り返った。 「はい……」  千晶の後ろに立っていたのは、背の高い男性だった。彫りの深いはっきりとした顔立ちは彫刻のように整っている。少し癖のある柔らかそうな髪がふわっと額に落ちて、栗色の瞳に淡く影を落としていた。彼は振り返った千晶を見て、ちょっとびっくりしたような表情で、淡い色の瞳を見開く。 「君は……」 「あの、そうです……。でも、小林先生、おやすみみたいで……」  小さな声で言う千晶に、彼はふわりと微笑んだ。 「それ、僕がやろうか」 「え?」  千晶は軽く首を傾げた。素直な前髪がさらりと額を滑る。 「あの……」 「僕は香月(こうづき)直哉(なおや)といいます。ここで数学を教えていますが、個人授業の英語なら教えてあげられます」  香月と名乗った講師は、まだ若かった。この予備校には、大学生のアルバイト講師がいる。彼はどうやら、その大学生講師のようだ。 「僕も、個人授業が急にキャンセルになっちゃってね。君と教務がいいなら、このままスライドして、君の個人授業を見てあげたいんだけど」 「香月先生……」  千晶はあっと頷いた。 〝香月先生って……すごく人気のある先生だ……〟  オメガである上に、もともと人見知りである千晶は、ここでも気軽に話す友達はいない。しかし、そんな千晶の耳にも、香月の名は聞こえていた。 〝確か、医学部の学生だって……〟  香月直哉は、アルバイト講師の一人で、白鳳(はくほう)医科大学の学生だと聞いていた。爽やかでハンサムな容姿と、わかりやすい講義で、常勤の講師たちより人気がある。 「どう?」  香月はにこっと笑った。思わず見とれてしまいそうなくらい素敵な笑顔だ。しばらくぼんやりとしていた千晶だったが、周囲のざわめきに、はっと我に返った。ちょうど講義が終わったのか、学生たちがぞろぞろと教室から出てきて、廊下で向かい合っている香月と千晶をじろじろと見ている。 「あ、あの……もし、よければ……」  千晶は慌てて言った。せっかく来たのだし、一人で自習するより、教えてもらった方がいい。その上、教え上手な人気講師だ。確か、なかなか個人授業の予約も取れないと聞いている。 「……教えていただけますか?」  千晶がそっと言うと、香月は魅力的な笑顔で頷いてくれた。 「じゃあ、手続きしていくから、君は先に自習室に行っていて」

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