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第5話

 予備校の自習室は、三畳間くらいの広さの個室だ。部屋は狭いが、防音はきちんとしているらしく、同じ作りの部屋がずらりと並んでいるのに、隣の音はまったく聞こえてこない。自習室とはいっても、個人授業を受けている生徒もいるはずだから、室内で話をしている部屋もあるはずだ。それでも、ドアをきちんと閉めていれば、音はまったく洩れてこない。  千晶はドアについているテンキーに、自分のIDを打ち込んだ。予約をしてあるので、ロックが解除されて、ドアが開く。広い机にかばんを置き、中からテキストとノートを出していると、ドアが軽くノックされた。 「はぁい」 「香月です」  低く甘い声が聞こえた。 「はい、どうぞ」  ドアが開く。 「お待たせ。えーと、桜庭くん……桜庭千晶くんだね? 君の個人授業の担当を、僕に書き換えてきました」  香月が入ってきた。白いポロシャツにベージュのセンタープレスパンツという、爽やかなスタイルだ。 〝アルファかな……〟  反射的に考えてしまって、千晶は心の中で首を横に振った。 〝ないない。医学生なら……アルファってことはないよね〟  医師は、高い知的レベルが必要な職業ではあるが、基本は現場職だ。大学を卒業して、国家試験に合格しても、免許が取れるだけで、すぐに仕事ができるわけではない。所謂下積みがとても長い職業でもある。こうした仕事につくアルファはほとんどいない。アルファの進路として一般的なのは、同じアルファの親の後を継ぐ企業オーナーか、政治家だ。突然変異的に現れるアルファも、たいていは子供に恵まれなかったアルファの一族の養子に入り、その後を継ぐ。アルファには生まれながらにして、人の上に立つ才能があり、それはベータやオメガではどうにもならない。 「どうしたの?」  千晶がぼんやりしていると、香月が覗き込んできた。彼の瞳は透き通るような栗色で、とてもきれいだ。千晶ははっと我に返った。 「な、なんでもないです!」  慌てて、テキストとノートを開く。それを後ろから香月が覗いてきた。無意識なのだろう、千晶の肩にそっと手をかける。  ふんわりと伝わる彼の手のあたたかさ。かすかな柑橘系の香り。 「きれいにノートまとめてるね」  香月が褒めてくれる。 「どこか、わかりにくいところはある?」 「あ、あの……ここなんですけど……」  千晶は、テキストをめくった。 「ここの……構文がわかりにくくて……」 「ああ、これはね、品詞分解するといいね。できる?」 「えと……」  千晶が考えていると、香月が貸してと言って、ペンを手にした。そして、自分が持ってきたレポート用紙を一枚取ると、テキストに載っている構文をさらさらと書き写していく。ちらりとテキストを見ただけで、五行ほどの文章を覚えてしまったようで、一気に書き終えると、千晶を見た。 「これを、品詞分解する」  香月の栗色の瞳を、千晶の黒目がちの大きな瞳が見つめる。一瞬見つめ合って、香月が微笑んだ。 「目がおっきい」 「え……」 「君だよ。目が大きいって言われない?」  唐突に言われて、千晶はさらに大きく目を見開いてしまう。香月が笑い出した。 「ほんとに大きいね。瞳が大きいんだな。すごく可愛い」 「……」  香月は話しながら、さっさと単語にかっこや丸をつけて、品詞分解していく。 「こうやって……前置詞句をかっこでくくって……これは絶対に主語や動詞にはならない。修飾語と考えていいから、かっこでくくって……」 「あ、そっか。文章をシンプルにするんですね……」 「そう。それで、次は動詞を探す」  狭い部屋だ。香月は座っている千晶の後ろに立っていた。千晶の肩越しに手を伸ばして、レポート用紙に書き込みをしていく。千晶の華奢な肩に手を置き、こっちを見てと示しながら、よく響く声で説明を続ける。 「動詞の直前の名詞が主語になるね。そう考えると……この文章の意味が掴めてくる」 「あ、そっか……」 「主語を先に探したくなるけど、動詞から探した方がわかりやすい」 「はい」  千晶は香月を見上げた。二人の視線が絡み合う。 〝うっわぁ……〟  香月の微笑みは、優しくて、とても爽やかだった。微かなシトラスの香りがふんわりと千晶の頬を撫でる。 〝こんなに……近くに来てくれる人……初めてだ……〟  彼は千晶がオメガだと知らないのだろう。そうでなければ、こんなに近くにいてくれるはずがない。確かに自習室は狭いが、今まで二度ほどお願いした個人授業の講師は、いずれも千晶から距離を置いていた。おそらく、千晶がオメガだと知っていたのだ。 「あの……」  思わず、千晶は言いかけていた。 〝僕がオメガだって……知らないんですか?〟 「どうしたの?」  彼の手が、さらっと千晶の髪を撫でる。手入れの行き届いた、インテリジェンスを感じさせるきれいな手だ。 「ああ、ごめん。なんだか、君とは初めて会った気がしなくて」  彼が笑う。 「ごめん。べたべた触られるの、嫌だよね」  すっと離れていこうとするのに、千晶は慌てて首を横に振った。 「べ、別に……嫌じゃ……ないです」  オメガである千晶には、家族でさえ触れるのを避ける。学校でも、遠巻きにされがちだ。こんなふうに優しく触れてくれる人は、今までいなかった。 「全然……嫌じゃ……ないです……っ」  この時間がいつまでも続けばいい。優しい人との穏やかな時間。自分が、この社会の中の異質な存在であることを忘れられる時間。 「じゃあ、続けようか」  彼がすぐ傍に椅子を持ってきた。体温を感じられるくらい近くに座り、千晶が投げかける質問に丁寧に答えてくれる。 「……品詞分解ができれば、英文を読むのが速くなるよ」  香月がテキストをめくった。 「えーと……じゃあ、これにしようか。これ、品詞分解してみて」 「はい」  静かな部屋。千晶の細い指がペンを取り、香月に教えられた通りに、英文を読み込んでいく。 「……君は素直だね」  香月が言った。 「僕もいろいろな生徒を教えてきたけど、みんなが君のように飲み込みが早くて、素直だったら、教えやすいのにな」 「そんなこと……」  香月の教え方は、簡潔でわかりやすい。いらないことは言わず、ポイントをきっちりと押さえて教えてくれる。そして、何より。 「先生が……優しく教えてくれるから……」  今まで、個人授業をしてくれた講師は、なぜか高圧的だった。千晶がオメガだと知っているせいか「こんなのやったって、無駄だよ」とはっきりと言われたこともある。大学に入っても、いくら勉強をしても、オメガである千晶に、それを生かす未来はない。そう言いたげだった。しかし、香月は違っていた。千晶が頷くのを、とても嬉しそうに見てくれる。ためらうことなく、千晶の髪や肩に触れ、優しく褒めてくれる。 「すごく……わかりやすいです……」  ずっとこのままでいたい。この心地よい空気の中にいたい。  壁に掛かった時計。進む秒針が時を刻む。二人きりの優しい時間が過ぎていく。  きっともう二度と、こんな時間は訪れない。彼が知ってしまったら……千晶がオメガだと知ってしまったら……きっともう二度と個人授業をしてはもらえない。

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