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第14話

△ どこまでも広がる、広大な野原が山を後ろてに俺の視界いっぱいに広がっている。 俺は、息を飲んでその景色をじっとみつめていた、 子供の頃にここにきた事がある。 強い風が、小さかった俺の身体を思い切り押し上げてきて、 空に飛ばされてしまうと驚きながら、 必死で地面にしがみ付こうとしていた記憶がある。 「さくらちゃん。」 不意に横から声が聞こえた。 振り向くと、兄が、立っていて、俺に優しく美しく 笑いかけてくれている。 そんな兄を黙って見た。 強い風は、成長した俺の身体を脅かすようなことはない。 「......................。」 大きくなったにいちゃんは、そんな風に笑うのかと、 俺は、記憶に焼き付けるように兄を見つめ続けた。 「さくらちゃん。飛ばされないから、大丈夫だよ。」 にこにこと天使のように笑って、優しく兄はそう言って ゆっくりとこちらに、手を伸ばして近づいてくる。 俺は、眉を少し潜めた。 見れば、あたりが、風に流されるように、暗い空で覆われてきていて、 風が、肌を刺すように、冷たくなった。 空や山がなくなって、植物も腐るように姿を消していく。 「........................、ッ..。」 俺が、息を飲むと同時に、足元が崩れ落ちるように何かに食い込んでゆくように、 身体が沈み、傾いた。 ボコッボコッ、ポコっコ、 沈む足元から黒く濁った、泥水が湧き出てくる。 恐怖が、また俺の全身を襲った瞬間、 頭上から一気に大量の冷水が、身体中を打ってきた。 「......ッッッ........ッ」 知らぬ間に、辺りは暗く、深い海に巻き起こる渦に全身を弄ばれ、強打しながら 飲み込まれてゆく。 息が......,息がッ、出来ないッ...いたい、いたい、助けてくれッ、いやだ 俺の全身、全ての骨の一つ一つが、粉々にゆっくりと圧し折られているようだった。 『さくらちゃん。』 悶え苦しむ俺の耳に、暗い海に響き渡る兄の声が聞こえる。 にいちゃん.....、どこにいるの。おれを、たすけて.. 『さくらちゃん。』 呼んでも、呼ばれても、それは暗い海に響いて消えてゆくだけ。 何のために、兄から名前を呼ばれるのか、 何のために、俺は兄を呼ぶのか、 むなしく、卑しい気持ちが俺の痛んだ身体を腐らせていった。 そのまま、1人、暗い海に飲み込まれる様に俺は沈んだ。 △ 「にいちゃん。」 美しく笑う兄に、俺は口を開く。 「にいちゃん。俺、なんかした?」 「.............................。」 兄は、変わらず笑っていて何も答えなかった。 △ 「............ッ........ッっ..........」 苦しさで、 眼を覚ました時、白い天井がまず目の前にあった。 俺は、学園の付属病院内のベッドに横になっており、 診療所は寮と通路が繋がっているここに運ばれたようだ。 悪い夢のせいで、ベッドのシーツに触れる部分が汗で気持ち悪い。 ギシッ、 「......................。」 顔を横に動かして、辺りを少し確認するように見る。 はやく、自分の部屋に帰りたい。 見慣れぬ部屋で、休んでいるのが、とても不安で、思わず 大きく動いて、音を立ててしまった。 だ、誰かいんのかな..。 シャラッ。 乾いた音を立てて、ベッドのそばのカーテンが緩やかに動く。 「........ゆき...ちゃん...。」 そこに立って、こちらを見下ろしていたのは雪だった。 顔には、大きめの湿布や手当て布が貼られていて、とても痛々しい姿だった。 「悠木桜。起きたんだね。」 そう言いながら、雪は少し伏し目がちになる。 「...うん。........ゆきちゃん...大丈夫...だから。」 つい雪の表情を見てそう俺が言ったものだから、 雪はさらに顔を歪めた。 ああ、もうそんな顔動かしたら痛いだろうに、 思いながら、俺は雪ちゃんに横の椅子に座るよう促す。 「...とにかく、座ってよ。立ってたらきついよ?」 俺も、なんか気使うし。 素直に、雪は椅子に座った。 外からの光が病室内に入り込んでいて、 どうやら、夕方らしい。 俺、どのくらい休んでたのかな。 腕をチラリと見ると、軽い点滴がなされている。 「悠木桜。」 「...うん..。」 「まだ、喉は辛そうだ。.......。」 「...ゆきちゃんも...ひどく痛そうだよ。」 「自分の心配を、しろ。」 そう眉を寄せて雪は言い、また黙ってしまった。 いつもの強気で凛とたたずむ雪から見ることのない、疲れ切り 弱々しく、顔を青白くさせた姿。 俺は、雪が何か話したくなるまで、待っていようとまた静かに瞳を 閉じた時、雪が口を開く。 「...なんで、逃げなかった....。」 シンとした、何の匂いもしないこの診察室で、 高い雪の声が、すっと響いた。 「............なんでって...。」 俺は、頭だけを左にいる雪に少し向ける。 なんでって、逆になんで。 あんな状態で、 「......別に.....、俺足遅いから..、多分逃げられなかったし...。」 強気な雪が、放っておけなかったからなんて言われてしまったら、 さらに追い込まれるだろうと思い、 軽くそう言った。 「馬鹿じゃないの。」 強めの口調が、先ほどより部屋に響く。 「......、そんな...言わんでも..。」 膝に置いて拳を作っている、雪の小さめの白い手が、ぎゅっと握られる。 「僕がッ、..僕が勝手に...アイツらに目をつけられるような事を  したんだ....、お前は関係ない...のに。」 「.....それこそ、関係ないだろ。.....ゆきちゃん、...酷い状態だったんだよ...?」 あれで、俺が逃げてたらそれこそ、もっと助けるのに時間が掛かって ゆきちゃんは確実にレイプされてた。 「....もう、いいじゃん。...こんぐらいで済んで良かったって..」 なんだか雪の状態に、飲み込まれそうで そう言葉を切り出す。 ギシリ、とベッドが音を立てた。 「......悠木桜。お前、自分の状態わかってない。」 雪は、顔を下に向けてそう小さく呟いて、 華奢な肩が、心細そうに少しだけ震えている。 「..................。」 俺は、答えなかった。 わかってる。 俺も雪も、すごく傷ついてる。 あんな暴力、当たり前だが、一度も経験した事等なかった。 身体は、時間が経てばすぐ癒えてゆくだろうけど、 心は簡単にはいかない。 「こんな目に、あって、簡単に泣けると思ってる?」 ポツリと、けど確実に雪は俺にそう伝えてきた。 先ほどより、精神が揺れ動いてきつそうな雰囲気を感じる。 「心なんか、シンプルで瞬間的だ。  だけど、.....隠れて怯えてる心を連れ戻すのは、簡単じゃない。」 顔を隠すように、華奢な肩を丸めて言う雪を、俺はじっと 見ることしか出来ない。 ゆきちゃんは、今、何と戦って俺と話をしてるんだろう。 「.........................。」 「それとも、悠木桜には自分の心を曝け出して、泣きつける相手でも居るの?」 それを聞いて俺は雪の顔を見つめ続けた。 点々と、白い肌に浮かび上がる青痣を目で追ってゆく。 「....................。」 「.....いないよ...。」 そう。いない。こんな事が、起こる前でも、人に素直に心のうちを言うなんて そうそう出来なかった。それこそ、自分が何かを抱え込んでいる事にさえ 気づくことも簡単じゃない。 目の前の雪の顔は、どうすれば自分の心の中にある『膿み』を、 癒せるのか、迷子で困惑しているようだった。 「..こうやって、冷静に喋ろうと思っても....。」 そう少し切羽詰まって口を開く雪に、俺も言葉をつい、重ねてしまう。 「心は、全然落ち着いてくれない、よね....。」 「.........。」 顔を戻して、また、視線を天井に向けた。 自分の心を、何か得体の知れない黒い塊が、うぞうぞと侵食してくる。 けれど、それを止める方法が俺たちは、わからない。 隣で、雪は、いよいよその手で自身の顔を覆った。 泣いては、いない。 「.....................。」 まだ、あんな事があって数時間だ。 普通に喋っているようで、心の中は混乱が渦巻いてる俺たちは、 まだ、お互いがこうやって近くに居る事で、 少しばかり支え合う形に、なっていたように思う。 「...やっぱり、俺が、逃げなくて良かったでしょ?」 そうぽつりと、言った。 ばかだ、と隣から小さな呟きが聞こえてきた。 △ 少し落ち着いた雪に、俺は質問したい事があった。 「...そういえば、俺わかってなかったんだけど...、  誰が助けてくれたの?」 それをきいて、雪は少し眼を見開く。 目元付近の大きなアザが不自然に見える。 「お前が、呼んだんじゃないの。」 雪の言葉に俺は、静かに、 「うん。.....でも、兄ちゃんにしかメールはしてない。」 意識が遠のく中で、複数いくつもの声が飛び交っていた。 兄が、俺の連絡を見て誰か連れてきたんだろうけど、それが誰かは わからなかった。 兄は、あの時、俺の電話番号を登録してくれていた。 「悠木心と、風紀の方達数名。それと、生徒指導教員二人に...... あと、蛍さまが。」 暗い調子で、喋っていた雪の声を俺は黙って聞いていた。 「...そうだったのか...。」 やっぱりにいちゃんの声だったのか。 『さくら。もう大丈夫だよ。』 かすかに聞こえた気がした声を思い出す。 雪は、まだ何か言いたそうだったが、 途中で、病院スタッフが俺を確認するために きたが、雪は病室を抜け出して俺の所に来ていたらしく忙しなく 元の病室に連れられていった。 俺が病室にいたのは、その日あった日を合わせて二日間。そのあいだ、 誰の面会も許されなかった。そして、学園の役員的な大人に事情聴取てきなのを うけて、俺は、寮に帰れることになった。 二日ぶりに寮に帰ると、部屋には春が居て、俺を確認した途端 勢いよく立ち上がって此方に歩いてきた。 「さくらッ」 「は、はる.....、ただいま。」 部屋の同室者と言うので、 おそらく連絡を受けて居たのだろう。 今まで見た事の無い表情の春がそこに居た。 目の前に、立った春の顔が心配そうに眉が顰められている。 「もう...大丈夫なのか?..どこも、」 苦しくないか、と春の方が苦しそうに喋っていたのを見て 心が痛くなる。 心配してくれて、いたんだな。 「うん。なにも、問題ないって。....大丈夫だよ。」 俺は、安心させたくてそう言うと、 春が何か痛そうな表情をした。 「.......触っていいか...」 急な春の質問に、目を泳がせる。 触る....って、なんで? 「..え?」 俺は何がいいかと聞かれているのかわからず、春を見ながら 聞き返した。 「...お前に触ってもいいか。....怖いかもしれないから....聞いた。」 あ。そういうことか。 でも、何で春がそんな事をしようと 思うのかまでは分からなかった。 「..........。」 俺は、少し春の様子を不安に思いながら、黙って頷いた。 「....................。」 春は、黙ってそれを確認すると、 そっと長く綺麗な手を俺の頬に伸ばしてくる。 カサっと乾燥した春の筋張った指が、優しく俺の頬に触れてきて、俺の反応を確認しながら 徐々に掌で包んでゆくのを感じた。 あの男とは、全然違う手。当たり前だな。 暴力的な、一方的な押さえつける力など、微塵もここにはない。 頭を優しく撫でてあやすように、顔の横側を静かに撫でてくれる春。 「...こわい?..」 そう聞いてくる春に、俺は節目がちに答える。 「..怖いわけ、ないよ。」 そういえば、小さい頃、 泣いてると母親がこうやって撫でてくれたって、春は話していた。 ああ、だから、春は俺にこんなふうに接してくれたのかな。 ありがたい気持ちが、徐々に胸に広がる。 そう思うと、とても心が温かなものに包まれ、 薄い膜で覆われていた何かが揺れ動いて、 こぼれ落ちそうな感覚だった。 髪を優しく、梳いてくれる。 「......かなしい顔、してる..。」 そう言葉が降ってきて、 かなしい?おれ、そんな顔してんのか。 俺は、いやで、先ほどより更に眼を下に落として、顔を俯ける。 「....だめじゃない。顔上げろ。」 そう春は言うけど、無理やり上を向かせようとはしなかった。 優しく左頬を撫で続ける春の手をそっと触る。 ピクリと一瞬動いた手に頬を少しあてる。 「..かなしい顔、おれ、してるの。」 そう質問しながら、春の手に顔をすり寄せるように、動かした。 「....してる。いつもと違う、かなしい顔..。」 また、ちがうやつ。と言って 春は、ゆっくりそっともう片方の腕を俺の背中に伸ばして、 包んで抱きしめてくれた。 「ちがう....やつ...?」 されるままに抵抗はせず、 俺は春の言葉を繰り返すように呟いた。 「.....................。」 握った春の手は、左頬に添えられたまま、背の高い身体にすっぽり 俺はおさまる。 かすかに、春から花の香りがして、胸が淡く動いた。 「はる。はるは、やさしいな。」 ありがとう、素直にそう思ったのが、口からこぼれ落ちた。 それに春は何も言わず、 ずっとそのままでふたり、部屋の中で佇んでいた。 一瞬、雪の事が頭を過った。

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