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第一章 小屋に住む少年と狼 (七)
「……る……しっ……りし……よる……夜!よかった目が覚めたんだな」
ぼやけた視界が徐々に鮮明になり、見えたのは少年の顔を覗き込む銀髪の男の顔だった。
ヒュッと息が詰まり少年は横になっていた体を勢いよく引き、ベッドの枕皮の端で蹲って体を震わせた。
目を見開いて泳がせっており、額には脂汗が浮かんでいる。
「夜――」
「来ないで!!!」
手を伸ばしかけた男が少年の声に肩をビクッと弾ませその手を止めた。
「怖い、怖い!いやだ……みそらどこっ……!」
少年の目からは大粒の涙が溢れ出した。
男は呼ばれた名前に呼応し少年の手を握る。
「俺だよ夜。みそらだよ」
声をかけても少年の目は焦点が定まっていないようで空をさまよっている。口からは無意識なのか呪文のようにずっとみそら、みそらと呟き続けている。
「夜、夜!俺はここだ!俺の目を見ろ!」
男が両手で少年の頬を掴んで顔を寄せる。
次第に少年の視線が男の目と合うようになり、少年の呪文は消えた。
「あおい目……銀の髪だ。本当にみそらなの?」
「あぁ」
男が指の腹で少年の涙を拭うと、少年はフッと微笑んだ。
「みそら、獣人だったんだね」
「あぁ。怖いか?」
少年は首を横に振る。
「怖くないよ。さっきは驚いただけ。こんなところで獣人と会えるなんて思ってなかったから。実は僕……」
言いかけて少年は慌てて手で口を塞いだ。
男が首を傾げると、何でも無い、と言って口を噤んだまま目をそらしてしまったため、それ以上聞くことはなかった。
二人の間に沈黙が流れたとき、外から声が聞こえてきた。
「殿下、お休み中のところ失礼いたします。少しだけお時間をいただけますでしょうか」
「わかった。今行く」
男は立ち上がり、
「ちょっと行ってくる」
と少年の頭を撫でてテントから出ていった。
みそらを名乗る男はここではここでは「シルヴァン」という名で呼ばれており、敬称として「殿下」と呼ばれている。
その意味が少年にはわからなかったが、身分が高いことだけは見ていてわかった。
今少年がいるテントだって普通の一人二人用のテントとはわけが違う。かなり大きいもので、おそらく簡易的であろうがテントの中なのにベッドがある。
テントから出るわけにも行かず暇を持て余していると、すぐに男は戻ってきてベッドに座っている少年の横に腰掛けた。
「なあ夜、俺達はこれからここより先に進んだところにある港から俺たちの国に帰ろうと思う。俺は君もそこに連れて行きたいと思っている。もし嫌だったら、一番近いヒトの村に送り届けることもできるが、夜はどうしたい?」
「僕は……」
少年はどうするのがいいのか判断できなかった。
人の村でのかつての仕打ちは体が覚えている。それにこの三年間のように生きるわけにも行かない。
しかしみそらについて行けばそこは異国であり想像をすることすらできず得体のしれない恐怖感がある。
何より先程見た獣人たちは皆体が大きく、威圧感があり体が強張ってしまう。
答えあぐねていると男は少年の頭に手をおいた。
「きっとすぐには答えは出ないだろう。俺達は明朝にここを出発する。それまでに答えを出してくれ。また朝日が昇ったら迎えに来るよ」
そう言い残し彼はそっと離れる。
その後姿が寂しくて、少年の胸を締め付けた。
「待って」
テントを出ようとする男を追いかけ、気づけばその腕に縋っていた。
「僕は、きっと他の村に行ってもまた疎まれるだけだと思うんだ。厄介者なんだ。だけどみそらだけが僕のそばにいてくれたんだ。それが嬉しくて嬉しくて。僕はこの一ヶ月近く、ずっとみそらの存在に救われてたんだ。だから、僕は、君と一緒に行きたい。僕を置いていかないで」
男は少年を自分の胸に抱き寄せた。
「怖い目には合わせない。絶対に守るよ」
彼の胸に抱かれたとき彼が狼だったときに感じた甘い匂いがした気がして、少年も彼の背に腕を回して強く抱いた。
「今日はもう寝ろ。朝は早いから」
男は少年を持ち上げベッドに運ぶとテントを出ていこうとした。
「一緒にいてくれないの?」
ボソッと呟いた声に耳を立てた彼はベッドに戻ってきてため息をついた。
一緒に横になるには簡易ベッドは狭かったため、少年と目があうのは男は抱き合うようにして寝転がった。
「今までと同じなのに、全然違って感じるね」
「俺がこっちの姿だからな。獣化しようか?」
「んー、いや、僕も慣れないといけないしこのままでいいよ」
男は少年の髪を撫でる。
「みそらってよく頭撫でるよね。好きなの?」
「悪い、嫌だったか?可愛いものを見るとつい、な」
ぱっと離れた手を少年は逃さなかった。
「嫌じゃ、ないよ。むしろ優しさが伝わってくる感じがしてくすぐったいだけで、嫌じゃない」
「そうか」
再び少年は頭に熱を感じフニャッと笑った。
「あ、そうそう。僕の名前、正確には『夜』じゃないんだ」
「そうなのか。君を抱きに来る男たちがみんなそう呼んでいたからてっきり名前だと思っていたよ」
「抱きにって……わかってたのか」
「毎晩君の声が聞こえてきて胸が痛かった。君の声は気持ちいいだけじゃなくて苦しい声が多かった。それがとてつもなく不快で不快で仕方なかった。だから風呂場で君の胸に奴らの印があるのが許せなくて匂いを消すために……」
「あれってそうだったのか!うわぁ恥ずかしいなぁ」
少年は自分の頭を撫でながら話している人が膨れ面になっているのが可笑しくて、フフッと笑ってしまい今度は不思議な顔をされた。
「……僕の名前ね。僕の本当の名前は『やよい』。夜に宵とかいて夜宵。僕のお母さんがつけてくれた名前なんだ。お母さんにつけてもらった大事な名前だったから彼奴等に呼んでほしくなくて『夜』って呼ばせてた」
「そうか。ファミリーネームは?ヒトにもあるだろう?」
少年は唸り、首を横に振った。
「ごめん。お母さんに、誰にも言わないようにって言われてるんだ」
「そうだったのか。悪かったよ。夜宵か。いい名前だな。……その、君の母上がつけてくれた大事な名前、俺に呼ばせてくれないか?」
「もちろんだよ。そのつもりで教えたんだ。みそらにはそっちで呼んでもらいたい。ところでみそら、君も本当の名前があるんでしょう?」
「ああ。まだ名乗ってなかったな。俺はシルヴァン・ルーヴ。獣人の国であるベスティアの第二王子であり、今は国外調査兵団の団長を務めている」
「えっ!王子様!?ごめんなさい、僕知らなくて」
「気にしなくていい。夜宵は俺の命の恩人だ。今回も断られたとしても国賓として改めて迎えの来ることすら考えていた。夜宵はもう俺の大事な人に変わりはないんだ」
「シルヴァン……」
「なあ、二人でいるときだけは『みそら』と呼んでくれないか?夜宵の声で呼ばれる響きが好きなんだ」
少年はこのとき自分より一回りも大きな男を可愛いと感じていた。
それから横になっているうちシルヴァンは規則正しい呼吸に変わり、夜宵は静かにその呼吸に耳を澄ませ、夜を越した。
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