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第10話 恋の決着

 誰もいない教室は静かだった。夕陽が差し込み始めたのに気付いて咲太は窓の方に顔を向けた。傾いた太陽に両親の顔が浮かんでくる。大丈夫かな……。咲太はまた視線を手元に移した。小さく折りたたんだメモには母親の銀行口座番号が書かれている。  結有から、放課後にここで待っていて欲しいとお願いされていたとは言え、実家のことが気がかりで、結有が何のために呼び出したのか考えることもできなかった。  夕陽は光っているのに眩しくなかった。まるでこの間の咲太を見つめる淳吾の瞳みたいだと思った。淳吾は急にアルバイトが忙しくなったとかで、授業以外はアルバイトに直行している。一応、今日は結有と会うから教室にいるとラインだけはしておいた。  そのときドアが開く静かな音がした。結有かと思い顔を向けると、そこには立中と結有の二人が立っていた。 「立中先生……」  二人は神妙な顔で近づいて来た。 「結有、なんで立中先生がここに?」 「ちょっと咲太に聞きたいことがあって先生にも来てもらった」 「え……なに?」  結有の代わりに立中が口を開いた。 「藤野、率直に聞くけど、井村君の従兄の圭吾君と付き合ってるって本当か?」 「えっ? 何ですかいきなりっ」 「圭吾君が藤野の部屋でシャワーを浴びていたそうじゃないか、しかも裸でいることが慣れた感じだったとか……」  そこまで言うと立中は口をつぐんだ。 「結有、いったいどういうつもりなの? なんで立中先生にそんなこと話したの?」  咲太は、どういう気持ちが背景にあったとしてもプライベートを簡単に口外する結有に怒りを覚えた。 「僕は……僕は咲太が許せない……」 「は、え、何それ」 「井村君に好かれていることを分かってるくせに圭吾君ともそういう関係になるなんて」 「ちょっ、待っ、それは違うの」 「咲太がとびきり可愛くてモテるのは分かるし、そういう友達がいることも嬉しいけど、井村君と圭吾君は従兄なんだよ? せめてそういうことは他人にしなよ!」 「ちょっと待って、そういうことって何? 何が言いたいの? ねえ結有、ちょ」  下を向いた結有の代わりに立中が答えた。 「要は二股かけてるってことだよな、藤野」 「ちっ、違いますっ、かけてません!」 「確かに藤野は男にもモテるだろうな……。俺も……。でも、幻滅したよ。本当はこんなこと言いたくないし告白してふられた奴の捨て台詞だと思って聞いて欲しい。抱かれるときはタイプの男とやって、普段の寂しさは自分に惚れている男で埋める。そういうことしてるとしっぺ返しが来るぞ」 「もう本当に待って下さい……マジで」  咲太はため息をつきながら肩を落とした。何をどう説明しても理解はしてもらえないだろう。淳吾がお湯を浴びて圭吾に変身していたなんて信じられるわけもない。 「咲太、そこで黙るなんでずるいよ。ちゃんと答えなよ。僕が井村君のこと好きだったけど諦めたの知ってるくせに」 「そうだぞ、藤野。俺だってお前を諦めた。どっちが本命なのかとか、それくらいは俺たちにだって聞く権利があってもいいんじゃないか」  咲太は自分の唇が震え始めたことに気付いた。まるで自分が悪いことをして二人を傷つけているようだった。そうじゃないのに説明できないことが悔しくてもどかしかった。 「ごめん……なさい」  咲太の口からは謝罪の言葉しか出てこず、目からは涙が出てきた。 「僕は謝って欲しくなんかない!」 「俺もその言葉の意味が分からない」 「僕が悪いんです……でも、もう、もうすぐいなくなるから、許して下さい……」 「は? いなくなる?」 「藤野、それはどういう……」  そのときドアの開く派手な音が響いた。 「お前らぁ‼ 俺の咲太をいじめてんじゃねえぞ、こら‼」  淳吾が怒りの形相で教室に入って来た。 「い、井村君……」 「なんで井村がここに」 「うっせぇ! お前ら二人して咲太一人に言い寄るなんて卑怯じゃねえのかよ!」  咲太は前に立ちふさがっている淳吾の袖を引いた。 「淳吾、いいよ、僕が悪いから……」 「お前は悪くないじゃん」 「勘違いさせてしまったのは僕だし」 「俺がこいつらに説明すっからお前は何も言わなくていい、分かったな」 「うん……」  淳吾は立中を見据えた。 「おい、タッチ野郎」 「な、なんだ、その言い方はっ」 「お前よ、ロリってふられたくせにうざいんだよ。しつこいマジで。大人のふりして格好つけんなら最後まで格好つけて潔く引き下がれよ! 咲太は俺のものなんだよ!」  立中は俯いた。淳吾は結有の方を見た。 「おい結有。お前もしつこい。この際だからはっきり言うけど、俺はお前のことは好きじゃない。恋愛感情なんて持ってない。しょうもない嫉妬心で咲太いじめたら俺ほんとに怒るから覚えとけよ」 「わ、分かったよ……だけど……」 「だけど何だよ、言え」 「圭吾君が咲太の家でお泊りしてたの知ってるの? シャワーの後、裸でうろうろして」 「知ってるも何も、あれは俺が咲太に頼んだんだよ。圭吾をあの日だけ泊めてやって欲しいって。圭吾はいろいろあって田舎に帰るとこだったの。俺のアパート、更新うざいから引っ越すことになって、荷物運び終わって部屋ぐちゃぐちゃで、ちょうどその日に俺は夜勤だったから咲太にお願いしたんだよ。それに圭吾は暑いとすぐ上半身裸になる癖があって、ああ見えてあれであいつにとっちゃ普通のことだから。勘違いさせたんなら従兄として俺が謝る」 「そ、そうだったの……。咲太、ならそう言ってくれたら良かったのに」  結有が咲太の方を向いた。 「あ、いや、その」  まごつく咲太を後目に淳吾が口を開いた。 「そういうことだから。立中先生も結有も、もういいよね?」 「あ、ああ」 「はい」 「もう一つ。咲太は二股かけるような奴じゃない。それだけは俺が言っておく」 「井村君、じゃ、最後に一つだけ僕も聞かせて。井村君は咲太と付き合ってるの?」  結有が声を振り絞って聞いた。 「おう、付き合ってるよ」  何の躊躇もなく淳吾はそう答えた。  立中と結有は項垂れ、じゃあ、と小さい声を発して帰って行った。  二人になった教室が静かすぎたのか、淳吾は窓を開けて風を入れた。 「うわ風きんもちぃっひ」  淳吾の明るい声だけが今の咲太の唯一の原動力に思えた。咲太が脱力するように座った長椅子の横に淳吾も掛けてきた。 「ジュン、さっきはありがとう……」 「俺ってもしかして嘘の天才?」 「……うん、そうだね、助かった」 「やっぱ元気ないなぁ」 「ごめん……」 「タッチと結有どころじゃないよな」 「いや、そんなこと……」  淳吾が何かに気付いたように椅子の下に手を伸ばした。 「あんれ、このメモ何」  淳吾が拾ったメモは咲太の母親の銀行口座番号が書かれたものだった。 「あ……僕の」 「見せて」 「だめ、それは」  淳吾は半ば無理矢理メモを開いた。 「あ……」 「僕の母親の口座番号」  淳吾からメモを受け取ろうとした拍子に窓から風が吹いてメモが飛んでしまった。咲太は思わずメモを追いかけた。メモはひらひらと宙を舞い、電灯の傘に引っ掛かった。 「サク、俺が肩車してやる」 「いいよ、脚立あるか聞いてくる」 「めんどいだろそんなこと、いいからっ」 「でも……」 「俺の肩じゃ頼りないって?」 「そんなこと言ってない」 「圭吾に変身するシャワーがありませんので乗って下さいまし」 「いいの?」 「ほら早く」  細くて華奢な肩に乗ることに罪悪感を感じたが、メモを取るためだと言い聞かせた。  淳吾はぶるぶる震え、真っ赤な顔をして唸りながらなんとか立ち上がってくれた。 「もうちょい……頑張って」 「ぅぅうおおぉぉっっ!」  メモに手が届いたがその途端に淳吾が揺れたので取り損ねてしまった。 「ごめんな、は、サク、俺がこんな小さい男だから、は、こんなこともちゃんとできなくて、は、でも、俺、お前のためなら頑張るから、は、ああ、うおおおっ」 「ジュンは小さくない! 大きい男だよ! 頼りがいのある男だよ! 僕はそんなジュンが大好きだから!」 「ぃぃよっしゃあぁぁ! あああああ!」 「取れた!」  咲太がそう言ったと同時に二人で崩れて倒れ込んでしまった。 「うわぁ、ああ、ごめん、ありがとうジュン」 「は、は、は、俺が悪かったから、は、は」  淳吾の息が整う頃には、いつの間にか外が群青色に染まり始めていた。淳吾は夜空を見ながらゆっくりと話し始めた。 「サク、俺、マジで引っ越すことにしたんだ」 「そうなの?」 「おう、しかももう部屋決めてきた。だからさっきの圭吾の話は経験談でもある」 「ふふふ、そうだったんだ」 「しかも2DK」 「随分豪勢だねぇ」 「だってお前と二人で住むためだから」 「…………ジュン……」  咲太の瞳に涙がじわっと浮かんだ。 「……で、でも、ジュン」 「金なら大丈夫。俺、今かけもちでバイトしまくってるの知ってるだろ。大半が日雇いで重労働してるんだぜ。割りいいからね」 「それって重い荷物運んだりとか?」 「そ。へへへ、実はね、重労働のときは圭吾に変身して働いてまーす」 「ええっ、そんなことできるの……」 「細かいこと聞かれずに終わったら現金くれるんだ。やっぱ力仕事は腕力ある方が楽だわ。あ、でも入力とか封入とかの内職系は今の方がスピード速いんだよこれが。ザ・使い分け」 「………………ジュン」 「泣くなよ、んなことで」 「……でも……だって……」 「言ったろ、俺がお前を守るって。当たり前のことしてるだけだから。そんなことより、家賃は気にしなくていいから、お前の稼いだ金で実家に援助してやれよ。そうすればお前だって俺だって気兼ねなく一緒に暮らせるだろ。俺はそうして欲しい、絶対に」 「家賃高いでしょ……申し訳ないよ」 「バーカ、俺の勝手で2DK選んだんだからお前がごちゃごちゃ言わなくていいんだよ」  淳吾は咲太の肩を抱き寄せた。 「それに言うほど高くないっていうか、ちょっと駅から遠いし、不便な場所でもある。だからそこは辛抱しろよ」 「……う、ん……」 「二人とも社会人になってちゃんと給料もらい始めたら、駅前とかに引っ越そう」 「うん……」 「一から二人で始めような」  咲太は淳吾の肩におでこを寄せた。 「うん、ジュン、ありがとう」 「おう」  風が咲太の前髪を揺らした。滲んだ輝きはよく見ると月と星だった。二人を優しく照らしてくれているのは、その光だけじゃないような気がした。

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