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事件の発端
繁華街の雑居ビルの小さな事務所で、傷害事件が発生したとの通報があった。その日は他のものは出払っており、東城と広瀬だけが残っていたため、二人で現場に行くよう指示がでた。
最近は、二人で外出することはなかった。東城は広瀬と駐車場にむかった。
広瀬が運転席に座り、東城が助手席に座る。広瀬はタブレットに住所を入力し、その指示にまかせて車を運転した。
現場についてから状況について説明をうける。被害者は事務所の借主で、小さな不動産屋を経営している。腹を包丁でさされ重症だ。今は病院に運ばれている。発見されたのは、事件発生から半日以上たっている。部屋で血を流して倒れているのを、となりの事務所の従業員が発見したのだ。
「半日腹に包丁がささっててよく死ななかったなあ」と血がべったりついた床を見て、東城は言った。
広瀬は、となりの事務所の従業員の男から事情をきいている。
「いつも朝は私たちの方が先に来て下の鍵をあけるんですが、今日は、なぜかあいてて、お隣さん早いんだなと思って前を通ったら、うめき声が聞こえてきたんです」どうしたのかと思ってドアをあけたら、血だらけの男が倒れていたのだ。あわてて警察と救急車を呼んだらしい。
「被害者とは親しかったんですか?」
「まさか」と男は答え首を横に振る。「ここだけの話、やばい感じの人がよく出入りしてて、怖いなって思ってたんですよ。廊下であったら会釈くらいはしますがね。こんなことになって、引っ越して行ってほしいですよ」と言う。
「やばい感じの人、というのは暴力団?」
「正確にはなんなのかはわからないですが、そんな感じの人たちでしたね」
東城は、事務所の中を見渡す。古ぼけた応接セットと事務机。今でも動くのかどうか疑わしい、大きな古いノートパソコンが置いてある。本棚にある住宅地図もずいぶん古いものだ。こんなんで不動産の取引できるのだろうか。
広瀬は、机の上の書類をペラペラとめくり、引き出しをあけた。「東城さん」彼は引き出しからスケジュール帳をとりだす。大きなサイズで、丁寧に書き込まれている。
「昨日の予定には、22時、黒商と書いてあります」
東城もスケジュール帳を覗き込む。「黒商?なんだ?」
「会社名じゃないですか」
「ああ、そうか。来客の予定かな。黒商の人間が来て、刺して、逃げた、と」
他に仕事上の取引がないかを探した。
「これは何だろう」東城が床にちらばる白い破片をみつけた。5つほどある。人差し指の先くらいの薄い細い楕円形のものだ。紙のようにも見える。鑑識は写真を撮影し、拾い上げて東城に見せてくれる。「花びらみたいですね」と東城は言った。
「おそらくそうでしょう」そういいながら、鑑識の男は丁寧に破片を集め、袋に入れる。
「花なんてないのに、どこからきたんだろうな」と東城は部屋を見渡した。殺風景な部屋には花はもちろん鉢植えも花瓶もない。
スケジュール帳にあった黒商のことをきくため、二人は被害者が運ばれた病院にむかった。
「なんで、とどめを刺さなかったんだろうな」と車の中で東城は独りごとを言った。「殺すつもりだったら、とどめを刺すよな」
広瀬は黙って運転している。
どうせ返事は期待していないので独りで言葉を続けた。「殺すつもりがなかったら、なんで包丁なんかもってきたんだろうな。刺してみて怖くなったのか。恨みでもあって、刺したはいいが、血をみてびっくりした、とか」
「恨みをもった人物がいたとして、そんな相手となぜ夜の10時なんて遅い時間に一人であったんでしょうね、不動産屋は」と、突然広瀬が答えた。「相手が自分を恨んでいるとは思っていなかった。恨みによる犯行ではなかった」
こんなにこいつが口をきくなんて、珍しいな、と東城は思う。
「恨みによる犯行じゃなくって包丁をもってきて、刺したのか。殺し屋みたいな?」
「その可能性はゼロではないですよ。脅すだけのつもりだったのかもしれない。誤って刺したら、殺してしまってもよさそうなものですが。出入りしていたのが暴力団ふうの人間というのも気になります」
「そうだよな。だいたい夜の10時に会う約束って普通の事業じゃあんまりないよな」
そういえば、広瀬と二人で捜査って初めてなんじゃないか、と東城は思った。東城は普段君塚や宮田と一緒にいることが多く、一方の広瀬は比較的年配者が見張り番のように一緒にいることが多かったのだ。
そして、東城はこの前あったことで、少しだけ広瀬への認識をかえてはいた。
一週間ほど前のことだ。東城が聞き込みから戻ると、部屋の中では、君塚がどんよりしていたのだ。
「どうしたんだ」
聞くと、今、課長が本庁に呼び出されているらしい。広瀬も一緒だ。
昨日の強盗傷害の取調べで、君塚は、容疑者に挑発されてつい手がでそうになり、とめようとした広瀬の手がもみあいで容疑者に当たってしまったのだ。容疑者は暴行だと弁護士に言い、弁護士から苦情が入り、課長と広瀬が釈明にむかったらしい。
「俺が悪いのに、広瀬さんが怒られることになるなんて」と君塚は落ち込んでいる。
「あいつ、おとなしくあやまりにに行ったのか?」
君塚はうなずいた。「俺が殴ろうとしなかったら自分が殴ってたからって、言ってました。でも、広瀬さんは俺をとめようとしてただけなんですよ」
気にしなくていい、と広瀬は君塚に言ったらしい。
「ふうん」意外だった。そんな大人なタイプだとは思わなかった。
しばらくすると広瀬が課長と戻ってきた。課長は、一言二言広瀬に注意していたが、事情を知っているだけにそれほど強い口調ではなかった。
君塚は、広瀬に頭をさげる。「すみません。俺のせいで」
広瀬は、首を横に振る。「呼び出しは慣れてるから」とぼそぼそ言った。もめごとの多い男なので、こんなことはたいしたことではないのだろう。「それに、容疑者を殴らなくてよかった。怪我させてたら、公判が維持できなかったかもしれないらしいから」
「広瀬さん、俺、気をつけます。どうしても抑えられなくなっちゃうんですけど」
「まあ、そういうこともあるよ」と広瀬は言った。
「広瀬さん、いい人ですね。俺、ちょっと誤解してました。自分のことばっかりの変人だと思ってたんですけど、それもすみません」君塚は素直に思ったことを口にする。感謝してるのかけなしてるのか、よくわからない発言だ、と端から聞いていた東城は思う。
広瀬はそういわれて、口を開け、何か言おうとしたが、口をとじ、前をむいて仕事をはじめた。
「お前ねえ、それはかなり悪口に近いぞ」と聞いていた宮田が吹き出しながら言った。「広瀬だってそんなこと言われたら返事しようがない。なあ、広瀬」
「え、あ、すみません」君塚があせる。「悪口のつもりじゃなくって、えっと。広瀬さん、思ってた人と違ったんで、あの」
そこまで言われて、広瀬も笑い出した。「いいよ、もう」と言っている。
広瀬の笑顔を見るのは初めてだった。表情が柔らかくなる。ああ、こんな顔をすると確かに美形だよな、とうっかり東城は思ってしまった。広瀬と目が合った君塚は顔を赤くしていた。
病院についたが刺された不動産屋はまだ意識が戻っていなかった。かなりな出血量で、危険な状態が続いているらしい。東城は広瀬と担当医師に話をききにいった。
刺し傷は数箇所あったらしい。いずれも致命傷には至らない傷だ。同時にさされたのではなく、時間をおいて刺されている。刃物は同じものだ。さらに、両手、両足には縛られた跡があった。後頭部がなぐられ、内出血している。これも致命傷にはなっていない。
病院をでて簡単に署に報告をすると、現場にもどり聞き込みをすることになった。車に乗って、今度は東城が運転する。広瀬は車内でタブレット端末を器用につかい、今までの情報を入力している。
「いやな事件だな」と東城は言った。
「拷問ですね」あっさり広瀬がいう。
「ああ、そうかもな」と東城は答え、ハンドルをきる。「腹がへった。どこかで昼メシ食わないか?」
「はい」意外に素直に広瀬はうなずいた。
特に食事に好みはないというので、通りがかりの駐車場のあるとんかつやにはいった。
とんかつ定食を頼むと、広瀬も同じものを頼む。ご飯は大盛り、と注文していた。運ばれてくると下を向いてひたすら熱心に食べている。
先に食べ終わってみていると、広瀬はご飯をおかわりまでしている。この細い身体のどこに入るのかと思う食べっぷりだ。
「朝飯食べなかったのか?」
「え?」広瀬は顔をあげる。「いえ、食べてきましたけど」皿の上のキャベツの千切りのくずまできれいに食べ終える。
「よく食べるな」
「そうですか?」テーブルの上のセルフのお茶を湯飲みにそそぐ。ついでに東城のも入れてくれた。
また、熱心にタブレットを見ている広瀬に、つい東城は話しかけてしまう。
「地図は、完成したのか?お前が作ってたやつ」
広瀬は、顔をあげる。「はい」こころなしかうれしそうに見えた。表情は変わらないのだから東城の気のせいかもしれない。このサブシステムの話をするのは嫌いではなさそうだった。
彼は、タップして地図を見せてきた。前は3分の1ほどしか埋まっていなかった赤や青の点が、全域についている。
「よく、時間あったな。かなり忙しかったのに」と東城は言った。
「思ってたよりかかりました。予定の3倍くらいです」と広瀬は言いながら地図を拡大してみせる。「このあたりは、入り組んでいて、わかりにくかったです。間違えそうになって」
「確かにそうだな。路地が多いから」と東城は言った。
広瀬が、タップして別な場所を拡大してみせてくる。写真が何点かでてくる。「ここで5年前におこった盗難事件、ご存知ですか?」
東城にまたタブレットを渡してくる。みると、簡単な事件概要がでてくる。留守宅に空き巣が忍び込んで現金や貴重品を盗んだ事件だ。「さあ、知らないな。俺が大井戸署に異動してくる前だし。それほど大きな事件じゃなさそうだしな」
「そうですか」
「それがどうかしたのか?」
「地図作っていて歩き回っていたら、話しかけられたんです。警察だってわかると、この盗難事件の被害者だったらしいです。まだ、調べてくれてるんだって感謝されてしまって。違うとは言い切れなくて。貴重品の中に、大事な形見の品があったらしくって、それだけは取り返したいといわれてしまって」と広瀬が答えた。
東城は、地図と事件概要をよく読む。
「下のフロアが担当してるはずだから、今どうなってるか聞いてみろ。そうだな、篠田っていうのに聞くといい。適当な返事されたら、東城から頼まれたって言えばきちんと教えてくれる。あいつには貸しがあるから」
「ありがとうございます」と広瀬が感謝の言葉を口にした。
「捜査が進んでるといいな」無理そうだけど、と東城は思いながら答えた。
広瀬はさらに他の場所をタップしている。「他にも何点かわからないことがあるんです」
「もし、よければ、今度、その地図みてやるよ。俺も昔のことは詳しくないが」と東城はこたえた。自分でも、広瀬にこんな親切な発言をするのに驚いた。広瀬がタブレットで楽しそうにしている様子をもう少し見たいと思ってしまったのだ。
広瀬も少し驚いたようだ。気のせいだとは思うがまたうれしそうな空気がただよう。「ありがとうございます。よろしくお願いします」と言われた。
お茶を飲みほして立ち上がったら、東城の携帯が鳴った。でると、高田からだった。
「不動産屋の事務所から契約の記録がみつかったらしい」急いで車に戻る。
「なんの契約ですか?」
「事務所の契約だ。何箇所かあるが、そのうちの一箇所は、今本庁が目をつけてるドラッグの取引所らしい」東城はエンジンをかけ車をだした。
「ドラッグがらみでしたか」と広瀬が聞いてくる。
「ああ。拷問はドラッグ取引関係のもつれかもしれないな」と東城は答えた。
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