8 / 46
倉庫の中に
その日は夜遅くまで聞き込みをすることになった。
今回の傷害事件は夜から明け方にかけておきているので、その間ビル周辺にいる人間たちの方が状況がわかりそうだったため行き交う人に丁寧に声をかけ、昨日何かをみなかったのか聞いて回る。めぼしい回答は得られなかった。
人通りがなくなったビルの前で東城はあくびをし、伸びをしたりひざの屈伸をしたりしている。そういえば、東城は昨日まで別な傷害事件の捜査で夜遅くまで対応していた、というのを広瀬は思い出した。疲れているのだろう。
「車で休んできてください。俺が対応しますから」と広瀬はいった。
東城はなぜか驚いた顔をする。何に驚いたのか広瀬にはわからなかった。
「もしかして、気を使ってるのか?」と聞かれた。それで驚くのはちょっと失礼ではないかと広瀬は思った。広瀬がむっとしたのが表情にでたのだろう。東城は笑った。「冗談だよ。悪い悪い。俺は大丈夫だ。お前こそ、休んでもいいぞ」
そういって、大きく両腕を頭の上に伸ばし、うーんと伸びをした。「それにしても誰も通らないな」
広瀬は東城を見た。東城は、見栄えのいい目立つ男だ。背は広瀬より頭半分以上高い。肩幅が広く胸板が厚い。筋肉がきちんとついている分、痩せ型の広瀬より身長差以上に体重があるだろう。大柄だが身のこなしがシャープで無駄がない。いつも余裕がありそうな雰囲気をただよわせている。目鼻立ちはくっきりしていて派手な顔だ。でもよく笑っているので人好きがする。感情の表現がわかりやすく、怒ったり喜んだりよくしている。年齢は広瀬より少し上くらいのはずなのだが、どこからくる自信なのかいつも上から目線でいばっている。俺様タイプなのだ。
広瀬は、東城を見るといつも体温が高そうだなあとぼんやり思っている。
怒ると怖いけど、とも思った。広瀬のことを怒る人は少なくはない。だから怒られることにまあまあ慣れてはいる。だが、東城が自分に怒ってくるのは苦手だった。普段、笑顔が多い東城が、自分にだけいらだって怒ってくるのは、理不尽だし、少し傷つく。
以前、上司の高田が広瀬に注意をする東城をからかい口調で「東城くんは広瀬くんにだけ厳しいな」といさめていた。他の人から見ても、そうなのだ、自分の勘違いではなかったのだとそのとき思った。今日は何のトラブルもなくてよかった、とも思う。
そんなことを考えていると聞き込みをしていた同じ課の捜査員がやってきた。彼は、今日は東城と広瀬はあがっていいと告げてきた。さらに重態だった不動産屋が死亡したという連絡を伝えた。「殺人事件になった。捜査本部が大井戸署に設置される」といい、他の捜査員と調整するため去っていった。
「もう一回、不動産屋みて帰るか」と東城がいった。「何かみつかるかもしれないからな」
そして、ビルの上の不動産屋に再び入った。中は相変わらず雑然としている。東城は、棚にある書類ファイルをいくつか見ている。契約書などのたぐいは既に資料として運び出されている。
広瀬は、棚の隅の地図を手に取った。5年前くらいに発行されている地図で、なんどもコピーをとったのだろう大きく開かれた跡が複数のページについている。
ページをあけると記号が書き込まれている。3色に色分けされている。東城も広瀬の肩越しにその地図をみた。広瀬は、各ページを丁寧に写真にとった。契約書の内容とつきあわせると記号の意味がわかるかもしれないと思った。
翌日朝、東城は早めに大井戸署についた。昨日からの報告書がまだ書きかけだったし、昨日の夜最後に見た住宅地図のことも気になったからだ。事務所についたらすでに広瀬がいた。そこまではよくあることだった。広瀬は早くきていることが多いのだ。
驚いたのは、広瀬が昨日撮影した地図の写真を表示したタブレットを見せながら話しかけてきたことと、さらに勢い良く話したことだった。
「東城さん、これ」
みると、昨日の不動産屋の契約した事務所の場所と契約者一覧を地図にプロットしている。
「あの後気になって整理してみたんです。あの不動産屋、5年前にこの地域で開業しています。ここ5年で不動産屋が契約している事務所26箇所のうち、ドラッグの取引場所と判明しているのは1箇所です。地図の記号では赤い丸になっています。赤い丸は他に2箇所あります。赤い丸がドラッグの取引場所か同じ契約者を示しているのであれば、こちらもドラッグの取引場所になっている可能性があります。そして、借主は黒沼産業です。他に黒沼商事という会社が5箇所ほど契約しています。これは黒い丸が書かれていました」
広瀬は自分の発見に胸をはっている。
「黒商?」
「そうかもしれません。黒沼産業と黒沼商事の関係はこれから調べますが、同一人物が経営している可能性は高いですね。高田さんに報告したら、黒沼とつく契約者の物件を確認することになりました」
広瀬は行く気満々だ。
「まだ、ドラッグがらみと決まったわけではないですし、不動産屋が拷問されて殺された理由は他にもあるかもしれません」
東城はうなずいた。そしてふと気づく。
「お前、今朝仕事してたのか?」広瀬とわかれたのは深夜をすぎていた。
「はい、どうしても気になって、朝早くに署にきたんです」
「熱心だな」と東城は言った。
広瀬は、うなずく。透明な目が今日はやけにきらきらして子供っぽく見えた。広瀬が珍しく楽しそうにしていたからそう見えたのかもしれない。
仕事は、ほんとうによくするんだな、と東城は思った。
まず、港湾にある倉庫に二人で行くことになった。道路が混んでいるので車で1時間以上はかかる。
広瀬が、タブレットで黒沼産業や黒沼商事、代表の黒沼のことを調べているので、東城が車を運転した。
数十分ノロノロと車を進めていると、助手席に座っていた広瀬の頭が前にがくっとゆれた。うつらうつらしているようだ。何度かおきようとしているが、睡魔が彼をとらえていた。早朝から調べものをしていたとすると、ほとんど寝ていないのだろう。
3回目に首が傾いたときに、東城はハンドルから左手を伸ばし、広瀬の頭を座席にもたれさせた。ひざの上のタブレットをダッシュボードの上にのせる。
「ちょっと寝てろ。ついたら起こすから」
「え、ああ、すみません」
そういいながら、広瀬はすっと寝入った。
名前を何度か呼ばれたような気がした。そして、大人が小さな子供の熱を測るように大きな暖かい手がそっと額に触れてきた。広瀬は、なにごとかと思い、目を覚ました。
「やっと、起きたな」と東城は手をひっこめながらいった。「何回呼んでも起きないから、具合でも悪いんじゃないかと思った」
広瀬は、身体を起こした。あまりにも深く眠っていたのでここがどこで、何をしているのか、見失っていた。黒沼産業の借りている倉庫近くに来ていると思い出すまでに、やや時間がかかる。
熟睡していたことに、自分でも驚いていた。仕事中にこんなふうに眠ったのは初めてだった。しかも、よりによって、怒りっぽい東城と一緒のときに、とは。
昨日から緊張し続けていたため疲れていたのだろうか。広瀬は、顔をこすって意識をはっきりさせた。
また何か注意されるかもと思って「すみません」というと、「そんだけ寝たらすっきりしただろう」と東城が笑顔をみせた。全く気にしていないようだった。
倉庫街の地図を見ると、黒沼産業の倉庫が見える。誰かがつかっているとは思えないような、古びた建物だ。
令状はとっていないので、まず、外観からみることになる。様子によっては中にはいれるだろう。
人の出入りはなさそうだ。2人は車を少し離れた場所にとめ、倉庫に近づいた。曇ったガラスの向こうには、廃棄物のようなものしか見えない。
広瀬は、一通り外を回り、撮影できる範囲で、写真をとった。
東城は、倉庫の入り口の隙間から、匂いをかいでいる。「なんか、やばい臭いがする」と言っていた。ほんのかすかだが、腐敗物の匂いがしている。
その後、裏口に行くと、ドアノブには鍵はかかっておらず、鎖とダイヤル式の南京錠で鍵をしていた。ドアの鍵が壊れ、応急処置をしたのだろうか。
広瀬は、がちゃがちゃと南京錠と鎖をゆらした。
「おい」と東城はいう。「壊れるぞ」
東城の言葉は聞かなかったことにし、南京錠のダイヤルを慎重にまわす。今の番号の並びと指先の感触で、あけることができそうだ。こんな無造作に戸締りをしている人間が、南京錠のダイヤル番号を複雑にするはずがない。
広瀬は、ひざをついて、南京錠を見て、やがて、カチャっとあけた。そして、鎖をはずしてドアをあける。
「広瀬、おい」と東城は再度言った。やや口調が不機嫌になっている。「こんなんで入ったら、後がまずいぞ」
そういいながら東城もついてくる。広瀬の手前ごちゃごちゃ堅いことをいってはいるが、広瀬があけなかったら、自分であけていただろうことは想像に難くない。
倉庫の中に入るとこもった熱気と腐敗臭が鼻をつく。
広瀬は、奥にすすんだ。それほど広い倉庫ではない。大半は、空のダンボールや木箱が捨てられているだけだ。何に使うかわからないネジや金属の小片も落ちている。倉庫の奥にはかつては倉庫の係員用だったであろう小部屋があった。
腐敗臭はそこからきている。入ろうとする広瀬を東城が制し、手袋をするとドアをあけた。
予想通り、そこには、男が倒れていた。頭蓋骨が半分くだけ、見たことのない液体が頭からもれ、夏場なので、ハエがたかりはじめている。まだ、身体は、腐って溶けてはいない。
東城は、無表情で死体に近づく。彼は、ちょっとかがんで、しげしげと死体をみていた。
広瀬は、捜査でこんな無残な死体を目にするのは初めてだった。
「完全に亡くなってるな。撃たれたのかな。この暑さじゃ片づけが大変だ」平気な様子で東城が言っている。
東城が、こちらを振り返った。そして、つかつかと歩いてきて、外を指差した。「ここで吐くな。現場が汚れる。外にいけ」
そういわれて、やっと広瀬は、うごいた。
急いで、走り、外の空気を吸うとなんとか吐かずに立ち直ることができた。だが、なさけないことに、少しの時間座り込んでしまった。
東城も出て来て、連絡をしていた。しばらくすると、パトカーが複数台やってくる。東城はてきぱきと状況を説明している。
広瀬には、パトカーがきたら、関係者が見に来る可能性があるから、と付近を見廻れといった。ついでに、誰かいたら聞き込みしろと指示された。
確かに、多くのパトカーのサイレンに何事かと倉庫街の作業員がでてくる。広瀬は、近くの作業員に、倉庫の出入りについて質問をした。何か仕事をしていないと、いたたまれなくなる。
倉庫への人の出入りを見たものはいなかったが、このあたりの管理をしている会社が監視カメラを何台か設置しているはずだと聞いた。場所を聞くと、少し離れているので、広瀬は車を使うことにした。
車までいくと、宮田が倉庫からでてきて、広瀬に手をふりやってくる。
宮田は広瀬と同い年だ。異動してそれがわかると打ち解けてきた。今の部署では宮田が一番親切だ、と広瀬は思っている。それとなく上司や先輩のことを教えてくれたり、部署で担当している事件の経緯を説明してくれる。あまり返事をしない広瀬にあきれもせずつきあってくれる。
「なにかわかったか?」と宮田は聞いてきた。広瀬は監視カメラの話しをする。
「俺も行く」といって車に乗ってきた。「お前、あれ、見たんだろう」と言ってくる。「俺、死体って苦手なんだよな。気分が悪い」そういって窓をあけ、顔をバタバタと手であおいている。シャツの袖に鼻をつけ、臭いをかいでいる。「あの臭い、あんな場所にいたら移りそうだ」おえっと言っている。
「広瀬は平気なのか?って顔じゃないな」と宮田は言った。
広瀬は返事をしなかった。あの時、すぐに東城に倉庫をだされてしまい、その後、足をいれていない。
「高田さんが誉めてたぜ。出先ですぐに死体みつけて」と本当に誉めてるのか、非難しているのかわからないことを言う。「君塚たちは、お前が行こうとしてたもう一つの事務所に行ってる。他の契約物件も一通りあたるそうだ」大きな事件になるかもしれないな、と宮田は話した。
付近の監視カメラの映像は、全て提供してもらうことになり、広瀬と宮田は周辺をあたりながら倉庫に再度戻った。
この倉庫にやってきたのは朝だったが、もう3時ころになってしまっている。東城が倉庫の外で誰かと電話していた。広瀬たちが戻ると、手で待っていろと制する。
電話が終わると宮田にいう。「高田さんが探してたぞ」勝手に離れるな、と注意をしている。宮田はうんざりした顔をしている。死体や臭いについての苦手をあらわしてためらわない。
「ご遺体は、もう搬送済みだ」といやがる宮田に東城は言った。「行って高田さんを手伝え」
そして、広瀬の方をみた。「これから、契約書にあった黒沼産業に行くから、お前もこい」
宮田は広瀬にバイバイと手をふると、倉庫にもどっていった。
車は東城が運転していた。彼は、聞き込みの結果を詳しく広瀬には聞いてきた。
車を走らせながら、東城は、周辺を見て、「腹減ったんだが、なにか食ってもいいか?」と聞いてきた。
もちろん、広瀬がそれを拒否することはできない。が、先ほどの光景と臭いがまだのどの奥にあって、とても食欲がでるものではなかった。「どうぞ。俺は、ちょっと」と正直に言うと、東城はハンドルをきる。
「このあたりに、駐車できる蕎麦屋があるから」と言った。「お前も、少しは食べたほうがいい。今日は、遅くなるから、身体がもたなくなるぞ」
立ち食いそばのようなところに行くのかと思ったら、座敷のある高級な蕎麦屋に入った。駐車場があるのがそこくらいだったからかもしれない、と広瀬は思った。
東城は、天麩羅そばに丼セットというかなりボリュームのあるものを注文している。広瀬は、なんとか食べられそうと判断したざるそばを頼んだ。
東城は、よほど腹が減っていたのだろうどんどん食べている。大きめの口に食べ物が運ばれ、すばやく咀嚼されていく様子は、こんな気分でなければ爽快ともいえるだろう。広瀬もいつもは結構食べるほうなので、おなかがすいたらとにかくいっぱい早くつめこみたいという気持ちはよくわかる。だが、今日は、二口ほど食べて喉を通らなくなってしまった。
だいたい、あんな無残な死体を見て、よく入るものだと思う。東城は死体をみるのになれているのだろうか。全く動じずにじっと観察していた。そんなに、今度の部署では見る機会があるのだろうか。
自分もいつかは慣れて、平気な顔をしてご飯を食べるようになるのだろうか。宮田はいつまでたってもなれないといっていたが。どうなんだろう。
そんなことを考えていると、食べ終わった東城が蕎麦湯をついだ湯飲みを渡してくる。
「なんでもいいから、入れとけよ」と東城は言った。「お前、普段大食いだろう。そういうやつは燃費が悪いんだ。燃料いれとかないと、ガス欠になる」
広瀬は「はい」と返事をして、蕎麦湯は飲んだ。
店をでてからしばらくして、広瀬が少しでもなにか食べられるように、東城があっさりしたメニューがある蕎麦屋を選んでくれたのかも、と思った。高級な蕎麦屋だったので、喉越しがよく、普通の広瀬なら3人前以上は軽く食べることができたろう。東城は、そういった気遣いをするということは広瀬も端から見て知っていた。その気遣いが自分にむかうことは今までなかったのだが、今日は違ったのかもしれない。がんばってもう少し食べればよかった、と広瀬は後悔した。
街中にある黒沼産業は、倉庫の雑然さとは全く異なり、中規模のこぎれいなビルの3階にオフィスをかまえていた。周りのテナントも普通の中小企業のようだ。
広瀬は、1Fのテナントの案内板を写真におさめる。
オフィスの受付の内線電話で責任者を大井戸署から来たこと、責任者に会いたいというと、色黒の若い男がでてきた。
広瀬とそう変わりない20代半ばくらいだろう。日焼けサロンに通っているのだろう、大きくあけた襟から見える肌も真っ黒だ。髪は金色と茶色がメッシュになって、つんつんと立ち上がっている。いかにも、悪そうな若いチンピラ、という風情だ。
東城は名乗り、名刺を渡した。身分証をといわれて、警察バッジを示す。
「なんすか、いったい」と男はいった。東城と広瀬をじろじろと見比べている。
「黒沼さんですか?」
「社長は、いませんよ」と男は答える。海外出張中だといった。突然現れた2人の警官に不信感でいっぱいだ。帰って欲しそうだった。
「そうですか。失礼ですが、あなたはこのオフィスの責任者の方ですか?」
「ああ、そういわれたからでてきたんすけどね。用件をいってもらえませんかね」
「港湾地帯に、黒沼さんが黒沼産業名義で借りている倉庫がありまして、そちらで、今朝、遺体がみつかったんです。そのご連絡といくつか質問があったので伺いました」と東城は丁寧に答える。が、態度はかなり威圧的だ。背が高く身体が大きいので、たいていの人間を見下ろすことになる。
「遺体?」男は顔をゆがめる。「遺体って?誰が?」
「それはまだわかっていません。そのことも含めてお話を聞きたかったんです。倉庫は、使われていなかったようですが、最後に行かれたのはいつですか?」
しばらく沈黙が続いた。すぐに返事をしないあたり、それほど馬鹿な男ではないかもしれない。「倉庫なんて、俺は知らないっすね」と男は答える。「社長の別事業なんじゃないですか」
「そうですか」東城はオフィスの中を見る。「こちらのオフィスではどのようなビジネスを?」
「輸入業っすよ。東南アジアから、お菓子や健康食品を輸入しているんです」
男は受付のラックにささるカラーのパンフレットを2枚とりだし、東城と広瀬に渡す。「女の子が喜ぶ美肌食品とか、男が自信をもてるなになにとか、ですよ。お兄さんも、もしよければどーぞ」
東城は、じっとパンフレットを見ている。「ネット販売はしていないんですか?」
「はあ?」
「いや、こういったものはたいていネットが流通ルートとしては大きいと思うんですが、このパンフには、Webページの案内がないので」
男は、じっとカタログを見る。裏返してもみている。「ネットでももちろん売ってますよ」と彼は答えた。「最近はね、刑事さん。SNSなんですよ。口コミで売ってるんです」
「なるほど」東城はさらにオフィスの中に入るように足を入れる。
「ちょっと。令状もなにもないんすよね。業務上の秘密情報があるんで、入らないで欲しいんですがね」と男はいった。
東城は、男を見下ろしている。「そうですか。それは失礼」
広瀬は、男のすきをみて、すっと、身体をオフィスにいれる。とめる声も聞こえないふりをして入ると、普通のオフィスだった。机にパソコン。事務処理をしている女性社員も2人ほどいる。他には先ほどのチンピラに似た男が2人。いくつかダンボールがつんである。
「ちょっと、困るな、入ってきてもらっては」とやや年配の男がにらんで立ち上がってきた。
東城が後ろから穏やかに声をかけてくる。「広瀬、ご迷惑らしいから」
そして、男に聞く。「黒沼さんのご自宅や立ち寄りそうなところはありますか?帰国されたらお話を伺いたいんです」
「社長がもどったら、あんたたちが来たことは伝えておきますよ」と男はいった。「それ以上は、個人情報なんで、令状もってきて」
東城は、うなずき、広瀬を手招きするとオフィスをでた。
ビルの外に出ると、上を見上げる。3階の窓から確かにこちらを伺っている目があった。
車にもどると、広瀬は、先ほどのパンフレットをみて、タブレットで検索をしてみる。すると商品のページがみつかった。黒沼産業の名前では販売されていなかった。売る気があるのかどうかもわからないページだ。
「写真とったのか?」と東城が運転しながら聞いてくる。
広瀬はうなずいた。胸ポケットに小さいペンタイプのカメラをもっていて、何かあると撮影するようにしている。
「後で、照合します」前科があるかもしれない。
「ああ」これから、一旦署にもどる、と東城に言われた。
しかし、しばらく走っていると、電話がかかってくる。とると、君塚からだった。
「広瀬さん」と心なしか声がはずんでいるように思える。前に広瀬がかばったら、それ以来君塚は広瀬とよく話すようになった。だいたいが、この電話のようにうれしそうに話しかけてくる。
君塚たちは、もう1件の黒沼産業の契約先の事務所に行ったのだ。そこは先ほどのオフィスとは異なり、小汚い狭い場所だった、という話をした。ドアは鍵がかかっていた。近くの事務所の勤め人らしき人々に声をかけて聞くと、夜には人が出入りりしているということだった。出入りする人の雰囲気はよくない、とも言われているそうだ。
事務所の窓は黒いシートがはられ、中は全くみることができないらしい。君塚たちはしばらくそこを見張るのだ。
「高田さんが、東城さんと広瀬さんにこっちに来てもらえって言ってました。バックアップしてもらえって」と君塚が言った。
東城は車の方向を変え、言われた場所にむかった。先ほど東城が言っていたように、今日は長い一日になりそうだ。
さらに、もう一件電話がかかってくる。今度は、鑑識からだった。東城に電話をしてきたのだ。昨日の不動産屋の事務所を調べた担当者だった。広瀬は運転している東城のかわりに話を聞き、電話を切った後、東城に伝えた。
「花びらが落ちていたそうです。あの、倉庫にも」と広瀬は言った。
東城は、ちらっと広瀬を見た。「何の花かわかるのか?」
「倉庫にあったのは彼岸花だって言っていました。不動産屋のは違う種類の花らしいです。同じ白い花びらですけど。冷凍保存してあった可能性があるということです」
「彼岸花って」と東城はつぶやく。「嫌な名前の花だな。しかし、何だってそんなことしてるんだろうな。わざわざ。証拠が増えるだけだろう。テレビの2時間ドラマの見過ぎと思うぜ」
ともだちにシェアしよう!