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弱点

君塚と東城が飲んだ後、駅に向かっていると、東城が足をとめた。 「広瀬じゃないか?」 見ると、通りの向こうで広瀬が足早に歩いている。彼も駅に向かっているのだろうと思った。しかし、後ろから男が広瀬を追っていることがわかる。背の高いやせた男だ。服装からすると堅気ではない。 男はポケットに手をいれており、明らかに様子がおかしい。広瀬は気づいているのだろうが、無視するようにまっすぐ前をむいて歩いている。 「誰だ、あれ」と東城はいった。 君塚が手をふって広瀬に合図を送るが、広瀬は気づかない。 後を追っていた男が、広瀬に追いつき、何かを話しかけている。広瀬は首を横に振ってそのまま歩いている。なんどか話しかけ、男がポケットからなにか出した。 「おい、まずいな」と東城が言った。 はっきりとは見えなかったが、刃物のようだった。男が広瀬を連れて歩き出した。脅しているのだろう。 東城と君塚は通りをわたり、走ってあとを追った。人ごみが多く、男と広瀬は途中までは見えていたが、どこかで曲がったのか見失ってしまう。 路地裏をのぞきながら探し回る。そこに、東城あてに電話がはいった。 北池署にいる、以前広瀬の話を教えてくれた同期からだった。 「勢田が、そっちにいってるかもしれないぞ」と言われる。一瞬誰の話なのかわからなかった。「黙打会の若いのから連絡があった。勢田があれてて、酒と一緒に向精神薬みたいなのを飲んで急にどこかに行ったそうだ。なにするかわからないって言ってきた。奴らも探しにそっちに行ってる。うちの署は広瀬と勢田の件はノータッチというのがスタンスだ。公式にそっちに連絡はしない。広瀬に気をつけろって伝えろ」 東城は、答えられなかった。 「おい、まさか、何かあったのか?」と同期がいう。 「まさに今変な男が広瀬と一緒にいたんだ」と東城が答えた。 「勢田だとしたら、ほんとに何をしでかすかわからないぞ」同期の声がうわずったのがりリアルで、東城をあせらせた。 「わかった。なんとかする」 君塚は先に走っていっている。東城も走った。路地裏を抜けていく。 ここは、まさに今日、広瀬と一緒にみていた地図の場所だ。相手が頭のおかしい男でも、広瀬なら傷つくことを恐れずに争うだろう。だが、繁華な場所で格闘になり男の持ったナイフで無関係は一般人を巻き込むことは避けるはずだ。 広瀬の地図では、この先には大きな病院があり、近くに工事予定地で立ち入りができない空き地があった。あそこでなら反撃しても大丈夫だと広瀬が判断する可能性は大きい。 東城は、空き地を目指して走った。 空き地はフェンスと木で囲われており、入り口があけはなたれていた。東城は中に入る。街灯が2つほどあるが、ほとんど暗がりだ。 声が聞こえる。身体がぶつかり合うにぶい音も。ガサガサっという音もする。 東城は声の方角に行く。 「彰也」と広瀬の名前を呼ぶ声が聞こえた。「なんで急にいなくなったんだ」男のせっぱつまった声だ。「俺の前から、どうして」街灯の明かりの中で、男が広瀬を地面に倒し、のしかかっているのが見えた。手には刃渡りはそれほど長くないが鋭そうなナイフだ。広瀬ののどにむけられている。広瀬は動かない。嫌な予感がした。もう刺されてしまったのか。 東城は走りながら静止の声をだした。 男は一瞬こちらをみたが、広瀬にむきなおり刃物を振り上げた。 東城はほとんど体当たりのように男に身体をぶつけた。男の身体がゆらいだので、ナイフを持つ手を後ろにねじあげた。そのまま、地面に男をひきずり倒し、ナイフを奪うと遠くに放り投げる。さらに、足で男の喉を踏んだ。酒と薬のせいだろう。相手は思ったより反応が鈍かった。 「動くな。踏み潰すぞ」 男はひゅっと喉をならし、息をつめる。東城を見上げた。正気ではない目だ。 広瀬が頭を抑えながら起き上がるのが見えた。上着とシャツが刃物で切り裂かれ、胸がはだけていた。 「広瀬、どこか刺されたのか?」東城が聞く。 広瀬はゆっくりと顔をあげた。「大丈夫です」と返事がかえってきた。声はかすれ、動作は鈍い。 そこで、車のライトがこちらに向かってきた。2台の車が走ってきて外にとまる。 数人の男が降りてくる。勢田と同じく堅気とは思えない男たちだ。 東城は、動くな、と声をかけた。勢田は自分の足元にいて動かない。勢田の命を握っているのは自分だということを示す。 真ん中にいた男がこちらにむかって言った。「勢田を連れ戻しにきただけだ。ご迷惑をおかけした」高級そうなに黒いスーツに黒いネクタイの男だ。 男は他の者に、車に戻るよう言った。1人で手をあげ何も持っていないことを示してゆっくり歩いてくる。 「北池署との約束で、広瀬さんには近寄らせないと言っていたんだが、申し訳ない」 「黙打会か?」 「勢田のところのものだ。広瀬さんのことでは勢田はどうかしている。こちらも困っているんだ」 「知るかよ、そんなこと」 「そうだな。ところで、あなたは?通りがかりの人とは思えないが?」 東城はその質問は無視する。「何をするつもりだ?」と反対にたずねた。 「勢田をつれて帰りたい。今の状況からすると、あなたは1人のようだし、我々は6人いる。穏便にすませたいのはお互い様だと思うが」 「俺を脅かしているのか?」 「まさか。お願いしているんだ。勢田は精神的に参っている。薬のせいだ。正気にかえれば、反省するはずだ。あなたも、ここで怪我をするより、広瀬さんを病院に連れて行くほうがいいのでは」 広瀬は、二人の会話を聞いているのだろうが、動かない。どこか怪我をしているのかもしれない。この男の言うとおり多勢に無勢だ。 「足をはずして、その場から離れていただきたい。ナイフは、あなたの近くにあるから、拾っていただいてかまわない」 東城は、ゆっくりと足を勢田の喉からはずした。そして、素早く動いて、いわれたとおりナイフを拾い上げ、広瀬の近くに立った。 勢田のところの男はこちらに歩いてきた。30代くらいだろうか。倒れる勢田に声をかけている。彼は車に合図をすると、2人の若い男がおりてきた。 「車に連れて行くだけだ」と勢田のところの男は言った。 そして、若い男に勢田を運ばせ、再び東城に礼を言った。「穏便にすませてくれてありがとう。これは貸しだと思っていただいて結構だ」 「ヤクザと貸し借りはしない。それに、今日、勢田をお前たちに渡すのはこちらとしては不本意なことだ」 男はふっと笑った。「元気のいいお兄さんだな」そして、その場を去っていった。 東城は広瀬の前で片ひざをつき顔を覗き込んだ。広瀬は自分を見ているが、ぼうっとていているようだ。 「頭、打ったか?」と聞いた。 広瀬は、ほとんど無意識に頭の後ろに手をやり顔をしかめた。痛そうだ。だが、彼は「大丈夫」と言った。自分に言い聞かせているようだった。 「頭痛や吐き気は?病院に行くか?」 広瀬は首を横に振る。 「大丈夫です」とまた広瀬は言った。そして、やっと自分の状態に気づいたようだった。引き裂かれた服の前をかきあわせようとしているが、破りとられているので合わない。白い肌が暗闇に浮かんでいる。手が震えていた。東城は上着を脱いで広瀬の肩からかけ、身体をつつんでやった。 「だけど、検査してもらったほうがいいんじゃないか?」 「それは、嫌です」と強く返事をされた。 東城は君塚に連絡をし、広瀬を見つけたこと、無事なこと、広瀬の家に送ることを伝えた。君塚は心配していたが、詳細な説明はしなかった。 東城は広瀬をタクシーに乗せた。1人で帰ることができると言っていたが、顔色が真っ青でとてもそうには見えなかったので同乗することにしたのだ。 「明日、高田さんには報告するから」と東城は広瀬に言った。 広瀬は、東城の上着を前にかきよせるようにして握っている。うつむいて自分の住所を告げた以外、一言も話をしなかった。東城もかける言葉がなかった。 広瀬の自宅の近くにくると「上着、明日でいいですか?」と聞いてきた。 その声の静かさに驚いたがすぐに「ああ、もちろんだ。かまわない」と答えた。 タクシーはすぐに小さなアパートの前にとまった。東城が自宅までそのまま乗るからというと、広瀬は礼を言って降りた。だが、ドアからでて歩道にあがった途端に広瀬がしゃがみこんだのが見えた。 「すみません、やっぱり降ります」と東城はいい、料金をはらってタクシーをおりた。 広瀬は、片ひざを地面につけていた。目を閉じている。顔が白い。自宅付近まできて、怖さが追いついてきたのだろう。 東城は声をかけた「広瀬、立てるか?」 広瀬は目をあけてうなずいた。手をだして支えると広瀬はたちあがった。ゆっくりとアパートの階段をのぼり、部屋に入った。 アパートはかなり古く、部屋は狭い1DKだった。広瀬をソファーに座らせた。ぐったりとしていて、無意識なのだろうがまだ、東城の上着をはなさなかった。目を軽くとじて震えているようにも見える。 「薬は何かあるか?安定剤みたいなものは?」と東城は聞いた。 広瀬は東城の言葉を聞いているのかどうかさえわからない。ただ、視線を自分に向けてくるだけだ。まあ、普通安定剤なんか置いていないだろう、と東城は判断した。 東城は、勝手にキッチンの冷蔵庫をあけ中を見た。牛乳パックが入っていたので賞味期限を確かめてカップにそそぎ、レンジで短時間あたためた。広瀬が、ずっと自分を目で追っているのがわかる。不安になった子供がその場にいる大人をただ見ているのと同じような感じだ。 なにかの拍子に泣き出すのではないかと、それだけが心配になる。ここで泣かれたらどうしたらいいのか困る。とにかく刺激しないように慎重にした。 東城は、広瀬にホットミルクを差し出した。「温かいもの身体にいれたほうがいい」 広瀬は東城を見上げ、やっと握っていた上着から手を離した。両手でカップを受け取るとゆっくりと飲んだ。時々カップに視線を落としている。灯りの下でみると、髪に汚れがついているのがわかった。先ほど勢田に地面に倒されたからだ。東城はまた部屋の中を勝手に動き回り、洗面所でタオルをみつけた。お湯でしめらせてもって戻ると、広瀬は空になったカップをもっていた。 東城はカップを広瀬の手からそっと取り上げた。テーブルに置く。タオルで髪の汚れをぬぐってやった。顔にも少しほこりがついている。 広瀬はだまったままじっと彼の動きを見ている。自分で拭く気はないようで、おとなしく東城の手に自分の髪や顔をまかせていた。 一通り拭き終わり「横になれるか?」と東城は聞いた。 広瀬は東城の口が動いたから声が聞こえたかのように目から反応した。彼は、東城を見たままやっと上着を自分の肩からはずし、破られたシャツを脱いだ。先ほどの暗がりほどには彼の肌は白くは見えなかった。普段の彼よりもその肢体は薄く見える。肌の色はくすんでいたがなめらかそうだった。胸の小さな突起とその下に続く腹や腰の線は細い。東城は見てはいけないものを見ているような気がして目をそらした。いや、ただの男の上半身だろう、見ててなにがまずいんだよ、と自分で自分につっこんだ。 東城は何かやることを自分で探し、証拠品になる可能性がある広瀬が脱いだシャツをたたみ、キッチンで見つけたビニールの袋に入れた。 広瀬は東城を視線で追いかけるのをやめていた。彼は着替ていた。東城はやっと落ち着いて広瀬を見ることができた。広瀬は、寝室に行き、ベッドに横たわった。その間もずっと無言だった。 広瀬はしばらくぼうっと目をあけていた。東城が傍で見ているとしばらくしてやっと目を閉じた。 東城は改めて部屋をみまわしてみた。ガランとして何もない部屋だ。ついこのまえ引っ越してきたという感じだ。異動とともにここに来たのだろうか。衣食住のためだけにあるような部屋だ。彼の好きなものや楽しみが何か全くわからなかった。本も雑誌も家族の写真も、請求書やダイレクトメールさえもない。テレビとノートPC以外は生活必需品ばかりだ。 こんな殺風景な部屋でよく生活できるな、と東城は思う。毎朝早く家をでて、夜遅くまで働いてなにもないこの部屋に帰ってくるのだ。無表情で感情がなさそうな広瀬そのもののような部屋だった。 しばらくしてもう一度寝室をのぞいてみると広瀬は毛布を抱え込んで眠っていた。だが、整った顔の表情は固く、苦しそうだった。ふと、彼に手を伸ばして頭やこわばっている肩をなで、心配することはない、といってやりたくなった。自分がここにいるから、と。彼を安心させ、ゆっくりと眠らせてやりたかった。だが、実際には触れることはせず、寝室を出て、自分の上着をソファーから拾いあげると広瀬のアパートを立ち去った。 タクシーを呼ぶためスマホをみると先ほど電話をしてきた北池署の同期から何度も電話がかかってきていた。心配していたのだろう。ほっておいて悪いことをした、と思い電話をかけた。同期はコールするかしないかくらいですぐに電話にでた。状況を話す。広瀬が怪我をしていないと聞いて安心しているようだった。 「黙打会の若いのに聞いたんだが、勢田は、数日前に広瀬がそっちの署にいるってきいてたらしい。昨日も大井戸署に行ってたかもしれない。広瀬はなにか言ってなかったか?」 「いや、なにも」 「知らなかったのか。黙ってたのかもな。あいつのことだから、知ってても黙ってそうだ」と同期は言った。「周りに頼ったりしないからな」 黙ってたとしたらそれはどういうことなのだろうか、と東城は思った。勢田を危険だとは思っていなかったということなのか、自分だけでなんとかするつもりだったのか。先ほどの苦しそうな寝顔と殺風景な部屋を思い出した。彼はずっと1人で行動するのだ。そう思うと無性に腹がたってきた。

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