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反転
そこは、廃屋に近い場所だった。さび付いた門から、どうやら以前は町工場だったことがわかる。だが、木や草が伸び放題で、塀の外まであふれ出ており、中の建物はほぼ見えない。
広瀬はぐるっと廃屋の周りをまわった。街灯の明かりだけが頼りだ。
佐々木の車はどこにもなさそうだ。こんなに草木が生えているところに、車でつっこんだらかなり目立つだろう。
木の枝に絡めとられて閉まらなくなった門から、広瀬は中に入った。できるだけ、音をたてないように進む。中は想像以上にひどい有様だった。歩くのもやっとなくらいだ。虫にとっては天国なのだろう。あちこちで盛んに鳴いている。足元は見えないくらい暗い。
手足も顔も草木の露や他のなにかわからない液体で濡れる。誰もこの中に入ってきてはいなさそうだ、と思った。
自分の読み違いだったのだろう。もしかすると、黒沼たちはオフィスのオーナーの別の事務所とも契約していて、そこに行ったのかもしれない。あるいは、全く別な場所があるのだろうか。だいたい、黒沼と佐々木はなぜホテルに寄らずに車を走らせたのか。疑問ばかりだ。
廃屋は、外壁の塗装がかなりはげ、屋根もさびていた。雨風にさらされ元がなにかわからないゴミがいくつも落ちている。それをよけながら進む。そこで、虫の声以外の物音がした。
廃屋からだった。
広瀬は身体をかがめて前にすすんだ。入り口はどこだろうか。あるいは、中を確認できる窓はないのだろうか。歩くだけでがさがさと草木が音をならす。静かに歩きたいのだが難しい。
声がした。
わずかな灯りが廃屋からもれている。誰かがいるのだ。広瀬は、もれ出る灯りの方に進んだ。見えるだろうか。
そうしながら、君塚に連絡するため、携帯電話をとりだした。静かに電話をしなければならない。
灯りのところには割れた窓があった。窓そのものはすすけてほとんど中はみえない。広瀬は伸び上がって中をのぞいた。
人影がある。2人だろうか。写真はとれるだろうか。自分の目より、タブレットのカメラセンサーの方がはるかに有能だ。これで写真をとったら君塚に転送し、後はこの場所でじっとしていよう。自分だってあえて危険なことをするつもりはないのだ。誰かを危険にさらすような真似もしたくない。広瀬はタブレットの輝度をおさえ、カメラ機能を立ち上げた。
「そこで何してる?」
声がした。振り返ると手に小ぶりのナイフをもった佐々木が立っていた。
「お前、なんでここに?」と言われた。
佐々木がナイフをふりかざした。その手をとめようと片手をあげて手首をつかむ。ナイフが顔をかすって頬がわずかに切れたのがわかる。かゆみのような痛みが頬に残る。体力は広瀬の方が上だろうが、佐々木は喧嘩はよくするのだろう。両手両足で逆らってくる。
ガチャっと音がして、広瀬は片手に持っていたタブレットを落とした。目が一瞬そちらにむいてしまう。佐々木は、タブレットのカメラ機能が起動していて、撮影されていることに気づいた。彼は、広瀬をつきとばすと、ナイフの柄で思いっきりタブレットの画面を打った。
「あ!」思わず広瀬は声をあげる。反射的にタブレットを守ろうとして姿勢を低くした。
そこで、いきなり背後から頭を殴られて目の前が真っ暗になった。
次に意識が戻ったときには、そこは廃屋ではなかった。真っ暗でがたがたと揺れていた。かなり狭い。
すぐに、車のトランクに入れられていることに気づいた。移動しているのだ。手を動かそうとしたが全く動かない。後ろで縛られているのだろう。固定されている。感触からすると細い何かできつく縛られている。動かせない時間が長く、腕も手も固まって痛い。
銃をもっていなくてよかった、とまず思った。予備の待機組だったから、今日は持っていなかったのだ。あれを奪われ誰かが撃たれたら最悪だった。
この車はどこに向かっているのだろうか。あの廃屋には2人いた。外には佐々木がいた。屋内にいたのは、黒沼と、もう1人は浅井だろうか。
あそこで自分を殴ったまま廃屋に放置すればよかっただろうに、なぜ、つれてきたのだろう。
色々と考える。アドレナリンがでているためだろうか、今はまだパニックになっていない。だが、だんだん時間がたったら、前に物置に閉じ込められたときのように過呼吸になるかもしれない。こんな狭い場所でパニックになったら最悪だ。
広瀬は、目を閉じた。身体は全く動かないだろうか。足はしばられてはいないようだ。動かしてみるが、可動範囲はわずかだ。さらに運転は荒く、常に身体のどこかがトランクの壁にぶつかって痛む。殴られた頭がまたぶつかるとかなり痛い。内出血で腫れているのだろう。
どれくらい走ったか時間の感覚はなかった。長い時間の後、車は停まった。バタンと音がして、ドアが開け閉めされている。乗っていた人間たちがでていったのだろ。
その後は静寂が訪れる。広瀬はできるだけ息を規則正しくしようとした。このままこのトランクに閉じ込められたまま、放っておかれたらどうしよう、と思う。自分は動けない。どうやったら脱出できるだろうか。君塚は自分を探してくれているだろうか。本部が自分の携帯かサブシステムのGPSで位置を把握し、助けに来てくれるだろうか。
宮田が言っていた「いつかまずいことになるよ」という言葉が頭の中で何度も繰り返される。今まで同じようなことを多くの人に言われてきた。そして、とうとうまずいことになったのだ。最悪の事態だ。ネガティブな考え方が頭の中に広がると、怖くなる。黒いイメージが広がっていく。
宮田の心配そうな声を頭の外に押し出さなければ、と思った。今は、自力で脱出することを考えよう。
広瀬は改めて姿勢を整えた。中からトランクの鍵は開けられないだろうか。後ろ手で鍵のあたりを探ってみる。どんな構造になっているのだろうか。身体がよじれ手がつりそうだったが、触っていく。それに、こうしていると気がまぎれた。何かチャンスがあるような気持ちになってくる。
いくつかの突起やでっぱりがあるのがわかる。押したり隙間に指先を入れてひっぱってみるとでっぱりが動いた。これがはずれたら、鍵があかないだろうか。そう思ってさらに努力してみる。
もう少しで動きそうだ。広瀬は息を吸った。
だが、そこでガチャっと音がして、トランクが空いた。誰かが自分を覗き込んでくる。
冷たい感触が額に当たった。拳銃の銃口だった。
「目が覚めたんだな」と言われた。佐々木だった。彼は乱暴に広瀬の腕をつかみあげて、身体をおこさせた。その間も銃口は額から離れなかった。
「降りろ」と言われる。
広瀬は、逆らわず、両足を外に出してトランクから出た。両手が後ろで縛られているのでバランスがとりにくい。
「変な動きをしたらすぐに撃つ」と佐々木は言った。
佐々木の持っている銃は質の悪そうな改造銃だった。
東南アジアから入ってきているタイプの粗悪な乱造品だ。佐々木が下手に扱って暴発すると嫌だなと広瀬は思った。安全装置ははずされている。
佐々木は広瀬に歩くように言った。そこは、湾岸地帯の倉庫街だった。以前、東城と一緒に死体をみつけた倉庫がある場所と同じ地域だ。だが、広い区域で同じような大きな建物が並んでいるため今自分がどのあたりにいるのかはわからない。
夜間のため人の気配はほぼない。曇り空のため月も星もない真っ暗な空が大きく広がっている。トランクから急に外に出されたため風の冷たさが寒く感じられる。
佐々木が行けと命じたのは、小ぶりな倉庫だった。中は学校の体育館くらいの大きさの空間が広がっていた。今も利用されているのだろう。荷物が隅のほうにきちんと並んでいる。サブシステムで確認したら何かわかるかもしれない。
そう思ったとき、サブシステムのタブレットが地面に落ちたことを思い出した。佐々木が壊そうとしていた。ナイフの柄ごときでは壊れないだろうが、本気で壊そうとされたら、もたないだろう。
そして、自分のポケットの感触からすると、携帯も無線もない。
佐々木が持って移動してくれていればいいが、GPSで広瀬を探してもらえるという可能性は低くなった。
倉庫の先には、二人の男がいた。1人は黒沼で、手足を縛られている。殴られたのだろう唇が切れ、右目が腫れ上がっている。
もう1人は浅井だった。投資用のパンフレットに印刷されていたにこやかで健康的な青年社長風の浅井とはずいぶん風情が違う。髪はぼさぼさで顔色は悪くやせていた。ここ数ヶ月、彼が追い詰められていたことがよくわかる。
浅井は、手に鉄パイプをもっていた。彼は、黒沼に問いかけていた。
「黒沼、残りの金はどこにやったんだ?」
「残りどころか、お前の金のことは俺は知らない。原料は自分の金を動かしたって言ってるだろう」
「さっき聞いたら、原料はそんなに多くない。残りがあるだろう」浅井は黒沼の言葉を無視している。
「原料の場所、正直に言ってるんだぜ。俺の金で仕入れたのに、お前にゆずるって言ってるんだ。お前が下手打ったつけで東京湾に沈められないように」
浅井は、鉄パイプを振り上げた。黒沼の右足に打ちおろす。黒沼は苦痛で大声でわめいた。
「言えよ。足の骨こなごなにするぞ」
「お前の投資の金のことは知らないんだ。乱暴すんなよ」と黒沼は言う。
「嘘つくな。お前、ずっと嘘ばっかりだからな」浅井の声が甲高い。自分が暴力を振るっていることに興奮しているのだろう。
佐々木が広瀬を連れて入っていくと、こちらを向いた。浅井の目は血走っている。
「つれてきたのか」と浅井は佐々木に言った。「なんだって、そんな刑事トランクに入れてつれてきたんだ」声はいらだっている。
佐々木は、まあまあ、と浅井をなだめようとする。
「あそこに置いてくればよかったのに。警察って、自分の身内になんかあったら、かなりヤバイらしいじゃないか」
「どうせ、この後、高飛びするんだから大丈夫ですよ」と佐々木は言った。「それと、俺、この刑事知ってるんですよ。ずっと社長の警護についてたから。こいつ、高値で売れるんですよ」
浅井は意味がわからないといった。広瀬も佐々木が何を言っているのかわからなかった。
「黙打会の勢田って幹部が、こいつに惚れるらしいんですよ。社長がそんな話してて面白いと思って色々調べたらこの刑事を連れて行ったら、言い値で買うっていう奴が何人かいるらしいんですよ。勢田の部下の男は、こいつを始末したがってるらしいんです。勢田がおかしいのはこいつのせいだから、こっそり消したいって思ってるって。他にも勢田の弱みを握りたいっていう奴もいるし。どうせ日本には一生戻らないんだから、こいつも売って少しでも金にするほうがいいでしょう」
「意味が全然わからないな」浅井は意味がつかみかねているらしい。「黙打会の幹部とこの刑事がなんだっていうんだよ。それに、売るってどうやって人間を売るんだよ」
「品物がきて取引するときに、一緒に売ってしまうんですよ」
「警察の人間をか?」
「そうです。売人から連絡が入ったら、俺が交渉しますよ」
浅井は、肩をすくめた。「うまくいくとは思えない」と疑っている。「だけど、ここまで連れてきちゃったのはしょうがない。売人が来るまで、変なことされないように見張っとけよ」浅井は言った。「それに、いざとなったら、黒沼と一緒に消してもらう」
佐々木は、うなずくと広瀬に座るよう命じてきた。動くと撃つとまた言われた。広瀬は、命じられるままに床に腰を下ろした。
「広瀬さん、ひどいかっこしてる。きれいな顔がだいなしだ。あんた、こんなところまできて何やってるんだ」と黒沼が広瀬に話しかけてきた。かなり身体が痛むようだ。「警護の連中も、あんたの上司も大丈夫だっていうから俺は浅井と会ったんだぜ。それがなんでこんなことになるんだよ」と恨み言を言われる。
確かにそうだ。こんなことになるなんて黒沼には申し訳ないことになった。だが、ここで状況がかなりわかった。
「佐々木が浅井とつながっていたのか?」と広瀬は聞いた。
「そうらしいな」と黒沼が答える。口をあけると痛いのか顔をゆがめる。
こういう状況だが、黒沼は不思議と怯えてはいないようだ。そういえば黒沼は今までも口では心配と言っていたが一度も怖がっている様子がなかった。恐怖の感覚が人より鈍いのかもしれない。「浅井は、俺が金を横取りしたって思ってるんだ」
浅井が、広瀬に鉄パイプをつきつけてくる。「お前、黙ってろ」と言った。かなりいらついているのだ。
彼は再度黒沼に言う。
「金の件、早く言えよ」
「だから、知らないって言ってるだろう。投資ですったのはお前で、俺だって出資金返ってこないじゃないか。金返せっていいたいのは俺の方だ」
ガシャンっと音がする。浅井が黒沼の足のすぐ横の床を鉄パイプで打ったのだ。
「黒沼、お前はずっとそうだな。ガキのころから平気で嘘ついて、金に汚い奴だった」
「じゃあ、なんで、俺とビジネスしてんだよ。俺は、お前を信用して会社作る資金もだしたし、金も貸した。そのお返しがこれかよ、浅井」黒沼は浅井をじっとみている。「俺は確かにお前の言うとおり金に汚いが、お前を裏切ったりはしないぜ。ガキのときからの友達だからな」
浅井は、しばらく黙っていた。だが、「うるせえよ。だったら金のありかをいえよ」といってまた鉄パイプを床に打ちわめいた。
黒沼は首を横に振る。
また、鉄パイプが振り上げられる。
広瀬は思わず静止の声をあげた。もしこの勢いで頭に当たったら黒沼は死ぬだろう。
浅井は血走った目を広瀬にむけた。「黙ってろって言っただろう」
「浅井さん、やめてください。この刑事は商品なんだから」と佐々木が浅井をとめた。
「商品になんかなるかよ。こんなやつが」と浅井は言ったが、鉄パイプを広瀬にむけることはなかった。
浅井はイライラと歩き回る。何度も腕時計をみて、さらにスマホをポケットから取り出している。出してはしまいしているうちに、とうとう電話がかかってきた。浅井はすぐに電話をとった。
彼は何事が返事をした。そして、佐々木に見張ってろといい、さらに手を伸ばすと、佐々木がもっている拳銃をうけとった。
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