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考えたくもない
ピーンというやや間の抜けた呼び鈴の音がした。
アパートのチャイムが壊れかけているのだ。
広瀬は目を覚ました。外は薄暗く時計をみると6時だった。早朝なのか夕方なのか一瞬わからなかった。
もう一度チャイムが鳴る。窓のカーテンの隙間から見える外は、車が走ったり人が歩いているのが見える。夕方だとすぐにわかった。
広瀬は、立ち上がり、ドアにむかった。帰ってすぐに眠ったのだが、こんな時間に起こされるとは思わなかった。もっと眠っていたかった。だが、空腹であることにも気づく。今日は朝食を食べたきりだ。足元がふらつく。
眠さと空腹で何も考えずにうっかりドアを開けると、そこには東城が立っていた。予期しない訪問だったので、思わず後ずさってしまった。
東城は、私服だった。左腕を黒いアームホルダーで吊って固定していた。額には大きめのキズパッドが丁寧に貼られている。病院に行ったのだろう。そして、右手には藤色のきれいな風呂敷に包まれた四角い箱を持っていた。
合鍵を使わず呼び鈴を鳴らしたのは右手がふさがっていたからなのか、先ほど広瀬を怒らせたから遠慮したからなのかはわからなかった。
「入っても?」と東城は聞いていた。そして、そういいながら手に持った風呂敷包みを広瀬に渡してくる。
広瀬は、なんだかわからないが、包みを受け取り、東城を中に入れた。風呂敷包みは広瀬が思っていたよりも重い。
「さっきは、悪かった。イラっとしてて、いいすぎた」と東城があやまってきた。「言い訳するようだけど、本当に、お前が撃たれるんじゃないかと思って、どうかなりそうだったんだ。だから、つい。すまない」
広瀬は返事をしなかった。
東城に腹がたっているのは変わらない。
なぜ、東城が広瀬に田島のことを話さなかったのかは、この先ずっとひっかかるだろう。そもそも東城にみせた浅井の情報は広瀬と宮田がもってきたものだったのに。それさえも、東城は利用していたのだ。
手柄が欲しかったため?宮田が東城は本庁に戻りたいのだ、といっていたから、そのために点数を稼ぎたいのかもしれない。それならそれで正直に言えばいいのに。田島の件を黙っていたのは広瀬がいつも勝手に行動するからだ、なんていうのはひどい。いや、それが本当に原因なのかもしれないが。高田さんは自分と課長が采配したのだと言っていたから、東城の一存ではもちろんないだろう。それはわかる。なにもかも仕方なかったのかもしれないこともわかる。でも、東城に裏切られた気分は消しようがない。いくらでも田島の話をする機会はあったはずだ。何回この部屋で会っていたというのだ。
ふと、裏切られたっていうのは、まるで、東城を信用していたみたいだ、と広瀬は気づいた。それはそれで自分に驚きだ。誰かを信用するなんて。
東城は背後から何度も広瀬にあやまってきている。彼の謝罪はあの倉庫で広瀬のことを怒鳴りつけたことだ。田島の件を言わなかったことではない。田島のことを黙っていたのは悪いとは思っていないのかもしれない。
広瀬は、風呂敷包みを机に置いた。
黙って東城を見ていると彼が説明してくれた。「これは、晩御飯」そういうと彼は右手で風呂敷包みをほどいた。
中から、三段の黒い重箱がでてくる。重箱には金色のもみじが散った模様がついている。おせち料理が入っていそうな重箱だ。広瀬にはよくわからないが、箱はプラスチックではなく漆塗りの高級品ぽかった。
「あけて」と東城は広瀬に言った。
広瀬が蓋をとるとそこには色とりどりの料理がぎっしりとつめられていた。他の箱にも美しく詰め込まれている。いい香りがふわりと部屋に漂った。
「お前、おなかすかしてると思って」と東城は言った。「作ってもらったんだ。もう夜だから晩飯になるだろ。一緒に食べないかと思って」東城は広瀬の反応をうかがっている。
ご機嫌をとっているのだ。食べ物でつろうとするとは、卑怯だ、と広瀬は思う。しかも、こんな美味しそうなものもってくるなんて。
中身はつやつやした鳥の照り焼きや黄色いふんわりとしたたまご焼き、根菜の煮しめ、白身魚のの西京焼きなどだ。デパートで作られたものではなく、家庭でつくったのだろう。肉が大目なのは東城の好みに合わせているためだ。小さめににぎったおにぎりも入っている。そういえば、全体的に片手で食べられるようになっている。右手しか使えない東城のために彼のお母さんがせっせと作ったのだろう。息子に不自由をさせたくない、とか、美味しく食べて欲しいとかそういった親の愛情があふれているお弁当だ。こんなにいっぱい詰め込まれていると愛情が過多な気もするけど。
「これは、もらえません」と広瀬は言った。
東城はびっくりしている。「腹減ってないのか?」
「すいてますけど、これ、東城さんのお母さんが東城さんのために作ったんですよね」それを自分がパクパク食べるのは気がひけた。
「え?」東城はまた、びっくりしている。しばらくしてああ、と言った。「これ、俺のお母さんが作ったんじゃないから。俺のお母さん、こういうの作れないんだ。仕事で忙しいのもあるけど、作ったことないし、料理には興味ないんだと思う。作ったのは俺の実家でごはん作ったりしてくれてる人。俺が、大事な人と一緒に食べたいからお弁当作ってっていったら、何を勘違いしたのかすごくはりきって、こんな豪華な行楽弁当みたいなのになったんだ」
東城は今日、怪我の治療で実家の病院に行ったのだ。そこで、お弁当を作ってほしいと子供の頃から知っているお手伝いさんに頼んだら、帰り際にこれを渡されたのだという。お前のために作ってもらったんだから、食べて欲しいと東城は言った。
確かにおなかはすごくすいているし、このお弁当は家庭料理を口にする機会のない広瀬には魅力的すぎた。
広瀬は、東城に懐柔されることにした。美味しそうな食べ物には抗えない魔力があるのだ。
お皿をだして机に置いた。日本茶が欲しいところだが、自分の家にはないと思っていたら、お弁当には日本茶のパックまでついていた。広瀬はお湯をわかし、カップにお茶をいれた。東城の分もわたした。
広瀬の食卓テーブルは一人用なのでせまく、椅子も1つしかない。東城は、パソコン机の椅子をもってきて、広瀬の前に座った。
二人でしばらく黙って食事をした。
こんなに大きな弁当箱を持ってきた割には東城はあまり食欲がないようだった。左腕が痛むのかもしれない。右手で食べていたが、時々左の肩を動かしている様子は痛くない位置を探しているようだった。
広瀬は食べながら彼の額の大きなキズパッドと左腕を見た。
あのとき、東城がつきとばさなければ、浅井が黒沼に振り下ろした凶器をまともにくらっていただろう。そのかわり自分が怪我をするなんて、と思う。東城は広瀬に無茶をするなというが、彼だとて同じではないか。
広瀬のすることに怒鳴ったり怒ったり、かばってきたり、機嫌をとったり、広瀬のことを想っているのかと思えば、簡単に裏切ってきたり、東城という人間が広瀬にはよくわからなくなる。今だって、平然と一緒に食事をしているが、何を考えて、何をたくらんでいるのか、わからない。広瀬が自分を見ているのに気づいた東城は少し首をかしげて怪訝そうにしている。その目は優しい。
食事はすぐになくなった。どれも全部美味しかった。大半は広瀬が食べてしまった。
最後のごはんつぶまですっかり食べつくしたあと、広瀬は重箱を洗おうとした。これは、普通に洗剤をつけて洗っていいものなのだろうか。東城に聞いたが、知らないと答えられた。研磨剤でこすらなかったら何でもいいんじゃないか、とか適当な返事だ。
検索しようとスマホを探して、壊されたことを思い出した。スマホもタブレットもないと不便だ。
東城に頼んで調べてもらった。
重箱は洗い終わって丁寧にふき、風呂敷に包みなおした。
「思ってたより落ち込んでないんだな」と東城が言う。「タブレットが壊れて泣きそうな顔してたって君塚が言ってたから、心配してたんだ」
「泣きそうになんかなってません」泣きそうな顔をしていたのは、君塚の方だろうに、なにを言っているんだ。しかもそんな話をべらべらと東城に話すなんて、そのことに腹が立つ。
「まあ、そうなんだろうな」と東城はそれ以上追及してこなかった。
もう一度座ってお茶をゆっくりと飲んでいたらまた眠くなってきた。こんなに充実した食事は
何日ぶりだろう。
半分目をとじていたら、突然頬を東城の指がたどった。ナイフがかすったところだ。「傷になってる」と言われた。「跡にならないといいんだが」
嫁入り前の娘でもないのに、顔に傷くらいなんだというのだろう。広瀬は東城の手をよけようとした。東城の手があごにふれて、そっともちあげられた。ああ、キスされるんだな、と思っていたら、その通りになった。東城の口の中が熱い。手を回して彼の首筋に触れると、身体もいつもより熱いような気がした。
唇が離れると「熱が?」と広瀬は聞いた。
「うん。腕が炎症おこしてて、微熱だけどな」と彼は言った。そして、にやっと笑う。「薬も飲んじゃってて、まだ痛いから、今日は、お前とできないんだ。ごめんな」
誰も、しようなんて頼んでないのに、と広瀬は思った。同時に、じゃあ、キスなんてするなよ、とも思った自分に驚いた。
しばらくして、東城は重箱をもって帰っていった。
「また、明日」と言ってドアのむこうに行った。明日、署で会おうという意味なのか、明日、また広瀬のアパートに来るという意味なのかはわからなかった。
スマホ、新しいのを買わないとと広瀬は思った。
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