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第6話 恋が報われない理不尽な理由

 やんわりと触れた唇に胸の鼓動が早まり、すがるように天希は伊上の袖を掴んだ。そうするとさらに口づけが深くなって、舌先で唇を割り広げられる。  滑り込んできたものに、口の中を愛撫される感触。気持ち良さでたまらなくなった天希の鼻先から、甘い声が漏れた。 「んっ、ぁっ……伊上」  たっぷりと口の中を味わった恋人は、リップ音を立てて口先にキスをしてくる。たったこれだけの口づけで蕩けてしまい、天希は彼の胸元に身体を預けた。 「あまちゃん、可愛いよ」 「伊上」 「もっとする?」  ほんのり香る伊上の匂いに、天希が頬を寄せてすり寄ると、ふいに彼は片手を上げた。その仕草の意味がわからず、天希は顔を持ち上げたが、次の言葉で動きを止める。 「田島、下がっていい」 「はい、失礼します」  淡々とした田島の声が、いまばかりはやけに耳につく。伊上の登場で、彼の存在がすっかり抜け落ちていた。  顔全体が茹で上げられたように、熱くなっていくのを感じ、天希はとっさに顔を隠す、が時すでに遅しだ。  田島の気配がなくなってもまだ、恥ずかしさで顔が火照る。ぎゅっと伊上のスーツを掴むと、腕で強く抱き寄せられて、胸の高鳴りまでプラスされた。  なにも言葉を発せず、天希は小さく唸りながら、額を胸元に押しつけるしかできなかった。 「大丈夫だよ、田島には見えてない」 「そういう問題じゃねぇよ」 「ごめんね。あまちゃんが可愛かったから、我慢できなくて」 「うー、まあ、俺も周りが見えて、なかったし」 「じゃあ、早く二人きりになろうか」 「待った! ここではもうするな!」  髪を撫で梳かれて、キスが額から唇へ降りそうになるのを、天希は両手で押し止める。寸止めにされた伊上は目を瞬かせるが、すぐにふっと笑ったのが感じられた。 「いまはこれだけにしておこうか」 「……うん」  優しく腕の中に抱き込まれ、恭しくこめかみに口づけられる。贅沢な悩みだと思ったけれど、一週間ぶりというのはやはり心に染みるものだ。  両腕を背中に回してぴったりとくっつけば、胸の音が伝わってくる。  天希とは違い、一ミリも駆け足していないが、緩やかな音は傍にいることを実感させてくれた。  そんな些細なことが嬉しくて、天希の口元に笑みが浮かぶ。 「あまちゃんが可愛すぎて我慢できないな」 「駄目だって、帰るんだろ」  首筋に顔を埋めてくる恋人に、慌てて天希は身をよじった。  いままで彼の部屋以外でしたことはないが、車などではよく悪戯される。こんなところでその気になられては、たまったものではない。もう二度と、この屋敷の敷居をまたげなくなる。 「帰ったらたっぷり可愛がってあげるからね」 「そういうエロ親父っぽいこと言うな」 「君の前では僕はただのおっさんだよ」 「せめてお兄さんにしとけ」 「優しいね。そんなこと言ってくれるの、あまちゃんくらいだよ」  至極嬉しそうに笑う顔に、天希はまた頬が熱くなった。顔が好みすぎるのは、こういう時に良くない。  悟られまいと腕を抜け出せば、逃げ出す前に手を握られる。 「行こうか」 「手は離せ」 「平気平気」 「平気じゃねぇよ!」  繋いだ手を引かれて廊下に出ると、数メートル先に普段から伊上の傍に控えている、お兄さんたちが立っていた。  彼らはいつものことだと涼しい顔をしているが、この屋敷の人間は繋がれた手を注視する。そして見てはいけないものを見た、という顔で目をそらす。  その反応に、天希はひどくいたたまれない気持ちになった。二人の時ほど表情は柔らかくないが、伊上の機嫌がかなり良いのは一目でわかる。  ここでは相当偉いに違いなく、崇拝する人がいるかも知れない場所で、こんなヤンキー、いやチンピラみたいな子供相手にご満悦なのが――ひどく申し訳ない。  だが背中を丸めたまま、彼の隣を歩くわけにもいかない。 「あまちゃんのそういうところ好きだよ」 「え? なにが?」  ふいに繋いだ手を引っ張られて、耳元に囁かれる。なんの話をしているのか、わからなくて天希は首を傾げるけれど、伊上はやんわりと微笑むばかりだった。 「明日は適当な理由をつけて断ってくれていい。間違っても朝一番に電話をかけてくるんじゃないよ」  忙しい最中も自分で車を運転しているようで、今日も伊上の車だ。助手席に座り、天希は外から聞こえてくる声を聞かないよう、スマートフォンに視線を落とす。  それでも恋人の声は意識しなくとも耳に届いた。  話しているのは一番近くに置いている、篠原という男。さほど伊上と歳が離れていないように見えるが、主人には徹底した態度をとる。  余計なことを話さない、忠誠心がありそうなところは、田島と似ている。否、田島が似ていると言うべきか。  伊上はお喋りが過ぎるタイプは、好きではなさそうだ。言葉が多い相手を前にすると、少しばかり煩わしそうな顔をする。  しかしその表情も、何人が気づくのだろうか、と言うわずかな変化だけれど。 「あまちゃん、帰ろうか」 「おう」  顔立ちが穏やかだから、いつもにこやかに笑っているように見える。それでも天希以外に接する彼は、まったく表情豊かではない。  傍にいるようになってわかってきた一面だ。  そう思うと他人に興味がない、は当てはまるような気がした。しかし単に興味がないことに無関心なだけとも言える。  発進した車は静かな住宅街を抜けると、街の流れに乗る。窓の外をぼんやり眺めながら、天希は時折窓に映る伊上を覗き見た。  おそらくその視線に、気づいているのだろうが、彼はいつもなにも言わない。 「二ノ宮ではなにもなかった?」 「これと言ってなんにもねぇよ」 「そう」 「あの家、かなりデカいけど、本宅ってもっとすげぇの?」 「いや、ごく普通の一軒家だよ。元々はあの屋敷が二ノ宮の本邸なんだ。奥さんが堅気の人だから、屋敷には住ませられないってさ」 「へぇ、あの人、愛妻家なんだな。っていうか家庭人、かな」  親子二人で食事をするのも、成治を気遣ってのことかもしれない。なおかつ妻が海外にいて不在ならば、息子が心配で家に一人残しては置けない。  家政婦に任せる手もあるが、職業柄、他人に任せられないこともあるだろう。家庭思いの夫ならば納得がいく。 「そういえば、成治と仲良くなったんだって?」 「ああ、うん」 「あまちゃんとあの子、なにか共通点あったかな?」 「うーん、色々と相談されただけだ」 「へぇ、恋愛相談でもされた?」 「え?」  あえて言葉をぼやかしたのに、伊上の言葉はピンポイントだった。しかし驚いて運転席を振り返るが、彼はなにごともない顔で道の先を見ている。  そこでカマをかけられた、と言うことに気づいたが、いまさら素知らぬ顔もできない。 「あまちゃん、そこは首突っ込まないほうがいい」 「なんでだよ」 「報われないものに一生懸命になったって、辛いだけだろう」 「なんで報われないって決まってんだよ」 「いまはやむを得ず屋敷に置いてはいるが、息子がこっち側にこれ以上近づくことは、志築が許さない」 「なんだよそれ! 自分だって奥さんを選んだくせに、成治だけが駄目っておかしいだろ!」 「そもそもあれは志築に拾われて、人生捧げてしまった男だから、成治には無理だ」  まだ相手が誰かとも言っていないのに、全部知っているような言い方だった。大人はお見通しというやつなのだろう。  確かに相手にするには難しい相手なのは、天希にもわかる。だとしても少年の淡い恋心を、簡単に握りつぶすのはあんまりだとも思う。  百分の一の可能性がないとも限らない。 「俺にはあんたたちの世界はよくわからねぇけど。恋心は障害があるほど、燃えちまうんだよ。火を消そうって言ったって、そんなに簡単に消えるかよ」 「あまちゃん」 「それを言ったら、俺とあんただって、……同じだろう。成治が駄目なら俺だって、あんたといるべきじゃない。大人の都合次第なんて、理不尽だ」  天希の吐き出した言葉で、二人のあいだにある空気が少しだけ波立つ。どこか戸惑うような気配を感じて、天希は黙ったまま伊上から顔を背けた。 「別に別れるとか、言ってるわけじゃねぇよ。そんな悲愴な顔すんな」 「そんなこと言われたら、このまま車ごと海に沈めるよ」 「物騒なこと言うんじゃねぇよ」  心中してもいい――言外にそんなことを言われて、胸が騒ぐ。だが恋人の言葉が、いまの天希にはやけに重たく感じる。  このまま二人で進んでいくということは、相手の人生を背負う覚悟をすると言うことだ。

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