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第12話 すべてを抱きしめてくれる手
ざわめきが広がる中で、勢いよくふすまが部屋に倒れた。それとともに男が数人、部屋に転がる。
廊下に立つ人物の周りを四、五人ほどの男たちで囲んでいるが、彼らもまたあっという間に部屋に転がされた。
後ろからやって来た屋敷の人間たちは、その様子に尻込みするよう足を止める。いま飛びかかっても、小バエのように払われる――それは一目瞭然だった。
「伊上、随分と賑やかな来訪じゃねぇか。今日は呼んだ覚えがないが、どうした?」
「こちらは少々、急ぎの用ができたもので」
「急いでるってわりには、すかした顔していて面白くねぇな。俺はお前の情けねぇ面が見たかったんだがな」
「ご期待に添えなかったようですみません」
「こんなことなら、お前の可愛い飼い犬を、もう少し泣かせてやっても良かったな」
下卑た敷島の声が響くと、それとともに人の呻き声が聞こえてくる。足を踏み出した伊上が、床に転がる男たちを靴底で踏みつけ、蹴り飛ばしたからだ。
視界の端に映ったその様子に、天希は息を飲む。
「い、伊上! お前、叔父貴でもある敷島さんの家に、土足で上がり込むとは、礼儀がなってないぞ!」
「ああ、久納さんもいらしてたんですか。すみませんね。それどころじゃなかったので、うっかりしていました」
話し方はひどく丁寧なのに、言葉の端々に棘があるのがわかる。その顔を見なくとも、苛立ちや怒りの気配を感じた。
畳を踏みつける靴音もやけに響く。一歩一歩と近づいてくる彼は、天希のすぐ傍で立ち止まる。
だが天希は身体を持ち上げられない。後ろにいる男が、天希を押さえ込んだまま固まっているからだ。
「敷島さん、犬の、躾がなってないですね」
「それは悪かったなぁ」
「ええ、本当に」
悪気の欠片もない声で笑う敷島に、伊上が色のない声でぽつりと呟きを返し、足を振り上げたのは、一瞬の出来事だ。
長い脚が頭の上で半円を描き、首が折れたのではないかと、心配になるほどの勢いで、天希を捕らえていた男が吹っ飛んだ。
反動で大きな身体が数メートル、畳の上を滑っていく。驚いて顔を上げた天希は、その様子に呆気にとられた。
「あまちゃん、おいで」
「伊上」
いつもの柔らかな声が聞こえて、天希は声の先を振り仰ぐ。視線が合うと、機嫌の悪さに拍車がかかったように見えたが、伊上はなにも言わずスーツの上着を天希の肩にかけた。
「遅くなってごめんね」
「……平気だ」
両腕に抱き上げられて、天希は恋人の首筋に顔を埋める。まったく大丈夫でも平気でもなかったのは、おそらくバレているだろう。
ほっとした途端に、身体が震えだした。誤魔化すようにすり寄るけれど、優しく背中を叩かれて泣きそうになる。
「おいおい、土足で人の家を荒らしておいて、そのまま帰るのか? 大したものだな」
伊上が天希の背を抱いて踵を返すと、芝居がかった口調の敷島が、畳を大きく叩いた。
「残念ながら、手土産は忘れました。あとでお気に召すものを送ります」
「だったら、それを置いていけ」
「……できません」
「さっきからお前は、誰にものを言ってるんだ」
少し前まで笑っていた敷島の声が一段低くなり、空気がぴんと張り詰めた。それでも伊上は天希を抱きしめる手を緩めない。
顔を覗き見ようとすると、頭を抑えられて抱き込まれる。
「いままで出せと言えば、ホイホイ自分のものを差し出してきたのに、随分と入れ込んでいるんだな。興味深いじゃねぇか。俺がしばらく飼ってやるよ」
「……」
「黙ってそれを置いていけ」
「お断りします」
天希の身体を一際強く抱きしめた伊上は、淀みなく言葉を紡ぐ。しかしそれが敷島の機嫌を損ねたのだろう。並べられていた膳が、派手な音を立てて転がったのがわかる。
さらには乱雑な足音が聞こえ、驚く間もなく天希は頭を鷲掴みされた。
乱暴な手は天希の髪をきつく掴み、無理矢理に頭ごと身体を引き寄せようとする。あまりの痛みに涙が浮かぶが、天希は唇を引き結んだ。
「伊上、手を離せ。詫び賃としてもらってやるって言ってんだよ」
「できないものは、できません」
「調子に乗るなよ」
見えなくとも伝わってくる。二人の一触即発の空気が首筋に触れて、天希はやけどをしてしまいそうだと思った。
自分を抱きしめる伊上の気配が、怒りで揺らいでいるのも伝わってくる。我慢の緒が切れるのも、あとわずかだ。
だがふいに聞こえた声に、張り詰めていた空気が揺れた。
「敷島、そこまでにしておけ」
どこかのんびりとした声音の人物――着物がよく似合う白髪交じりの男性は、部屋に入ってきたところで、天希と目を合わせた。
じっと見つめ返す天希に、彼は黙って人の好さそうな笑みを浮かべる。穏やかな眼差しをしていても、この人も伊上と似て、考えが読み取れないタイプに見えた。
「玄関からここまで、屋敷が大層な荒れっぷりだったぞ」
彼が姿を見せると、それまで敷島相手には、かしずく様子を見せなかった伊上が、躊躇うことなく膝をついた。
天希はそんな恋人と男性を見比べながらも、緊迫した空気には逆らえず、伊上に倣いその場で正座をする。
「な、なんで急に」
「いや、二ノ宮が珍しくうちに駆け込んできてな」
うろたえる敷島に、男性は快活そうな笑い声を上げる。
彼が鷹揚に片手を上げ、それを手招くように振ると、後ろからスーツ姿の志築が姿を現した。
それを見た敷島は、途端に苦虫をかみつぶしたような顔をするが、なにも言わず志築は膝を折る。
「お前が堅気さんに悪戯して困っているというので、来てみた」
「いや、それは」
「こんな子供に意地悪するなんて、お前さんらしくないな」
男性が立場上、一番偉いのだろう――と言う雰囲気は感じ取れる。三野を始め、その場にいる全員が膝をつき頭を下げている。
とはいえ天希は目の前で繰り広げられている、大人たちの関係がさっぱりわからない。完全に蚊帳の外だ。
「伊上」
「うん、この人は桂崎さん、僕たちのボスだよ」
「え? あんたのボスって二ノ宮じゃねぇの?」
二ノ宮組の組長は志築で、伊上はその弟分。最近ようやく人の序列を覚えてきたのに、天希は頭の中が疑問符だらけになった。
その様子が手に取るようにわかるのか、伊上は少しだけ口の端を上げて笑う。
「うちの組は二ノ宮という一組織ではあるけれど、大きな組織ではその一部でしかない。僕たちは大分類の歯車の一つでもある」
「要するに? 二ノ宮では社長や副社長でも、別なところに行くと役員か平社員ってことか? あんたらの組織って、複数が一個になるのか? この人は二ノ宮より、ここの組より大きいところの、偉い人?」
「端的に言うとその通り」
よくできました、と言わんばかりに頭を撫でられて、天希は気恥ずかしくなる。さらには桂崎に微笑ましそうな目を向けられ、ますます頬が熱くなった。
「二ノ宮、お前と桜さんのようだな」
「もったいないお言葉です」
「伊上の秘蔵っ子は、噂に違わず可愛らしいな。だが周りが騒いでも、無闇に披露目をする必要はない。私からも皆に言い含めておこう。伊上、いい機会だ。逃げ回っていないで、そろそろしっかりと地位を築け。いつまで根無し草でいるつもりだ」
「桂崎さん、買いかぶり過ぎですよ。自分にはまだ早いというだけの話です」
「もう少し真面目に考えておけ。……さてこれで終いだな。私はもう帰るぞ。敷島、遊んだあとはしっかり片付けをするんだぞ。今回の件はここだけの話にしておく」
桂崎の言葉に、勢いを削ぎ取られた敷島はがっくりと膝をつく。久納に至ってはうな垂れて、半ば畳に倒れ伏していた。
「二ノ宮、外まで送れ」
「はい」
「あまちゃん、帰るよ」
「ああ、うん」
トントンと舞台が畳まれていく様子に、天希はあ然としていたが、立ち上がった伊上に拘束されていた手をほどかれて、ゆっくりと立ち上がる。
少しばかり足が震えたけれど、腰に回された腕に抱きとめられた。
廊下に出るとまるで突風が、台風が過ぎたあとのような荒れ具合だ。ふすまも障子も半壊。あちこちで呻く男たちが転がっている。
桂崎の登場で、事態はあっという間に落着してしまったが、天希が思う以上に大ごとだったようだ。
助け船が、桂崎があと少し遅れていたら、どうなっていたのかと、いまさらながらに冷や汗を掻く。
ちらりと伊上を見上げれば、頭を頬に引き寄せられた。
「ごめんな、迷惑かけて。俺のせいであんたに、我慢をさせたよな。あのおっさんは俺がどうこうってより、あんたをこけにしたかった、って感じだった」
「あまちゃんが謝るようなことは一つもない。大丈夫だよ」
「……うん。それにしてもよくわかったな、ここだって。てか、来るの早くてびっくりした」
「田島がちゃんと車のナンバーを覚えてた。ギリギリ来られたのは、あまちゃんが乗った車が、途中で渋滞にはまったおかげだよ」
「そっか、俺、運が良かったんだな。……あっ! あの二人は?」
「家で反省中」
あの場に居合わせた二人には、随分と迷惑をかけただろう。成治はそこまで叱られることはない、かもしれないが。
不機嫌そうに眉を寄せた恋人の横顔を見て、田島の安否が気にかかった。この場がこの惨状だ。伊上が切れていない可能性は、ゼロに等しい。
「伊上、あのさ、田島に怪我させて、ないよな?」
「あまちゃんが心配することはないよ」
「なにかしたのか!」
「帰ればわかることだよ」
素っ気ない言葉を聞くと、急激に不安が募った。それでも天希が顔を青くすれば、伊上はなだめすかすように頭を撫でてくる。
心配をうやむやにされている気がしたが、それ以上に彼に心配をかけたのは確かだ。
急に天希を二ノ宮に預けるようになったのは、自分が傍にいないあいだ、今日みたいなことが起こりうると、危惧したからだろう。
志築が田島を押しつけてきたのも、成治を気にかけてではない。
覚悟をしている、守ってあげる、いまになってその言葉の意味を理解する。その場に身を置かれてようやく、彼の世界を実感させられた。
身ぐるみを剥がされかけただけで済んだのは、きっとまだマシなほうだ。
多少裏が黒いところがあっても、二ノ宮の印象は白に近いグレーなので、天希は危機感が薄かった。今日は身内のもめ事だからこそ、ことが治まった。
これが伊上と対立し合う相手だったら、ごめん――なんて言葉では、済まないことになっていたに違いない。
深く考えなくともわかる。
いまの天希は、伊上の最大の弱みでしかない。
「俺はあんたの、枷になってないか?」
「……あまちゃんは、なにも考えなくていい」
静かな声が返ってくるけれど、天希の胸の中はさざ波が立って、ちっとも落ち着くことができなかった。
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