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第13話 何度だって言える
二ノ宮家に帰り着いたのは日の暮れた頃だった。成治たちの心配をしていた天希は、すぐさま二人を居間に呼んだ。
田島の顔に青あざの一つや二つ、想像していたのに、現実はそれとは大きく異なっていた。その有様を見て、天希は自分を膝に乗せる恋人を睨み付ける。
「伊上! あんた、成治のこと殴ったのか!」
「殴ってなんかないよ」
「嘘つけ! 成治の顔、腫れてるじゃねぇか! 子供を殴るなんて大人としてサイテーだぞっ」
並んで正座する田島と成治は、伊上を前に緊張したような面持ちだ。確かに反省中というのがありありとわかる。
そして田島の顔に、痣はあった。あったけれど、それよりも成治の頬のほうがひどく腫れて、口の端にガーゼが当てられている。
「僕が悪いんじゃないよ」
「なに子供みたいなこと言ってんだよ!」
たとえ親でも、志築が手を上げることは考えられない。そうすると犯人は伊上しか考えられないのだ。だが彼は拗ねた顔をしてそっぽを向く。
「天希さん! こ、これは俺が自分で」
「自分で殴ってそんなに腫れるわけねぇだろ」
「そうじゃ、なくて。俺が伊上さんと田島さんの、合間に入ったのが悪いんです」
「え?」
オロオロとする成治の言葉に、天希は驚きのあまり、開いた口が塞がらなくなった。あの伊上の前に、思わずだとしても飛び込める成治の度胸は、相当なものだ。
伊上は田島相手に手加減したとは思えない。成治の行動で、とっさに手を緩めたとしても、かなりの勢いで殴られているだろう。
好きな男のためと言え、いささか無謀すぎる。顔が変形したり、歯が折れたりしなかったのは不幸中の幸いだ。
ある意味、伊上だったからこそ、この程度で済んだのかもしれない。反射神経が鈍い相手であったら、もっと大事故になっていた、とも考えられる。
目の前にいる二人を見比べれば、いままで黙っていた田島が両手をついて、深々と頭を下げた。
「すみませんでした。新庄さんを危険な目に遭わせたのも、成治さんに怪我をさせたのも、自分の不注意です」
「ま、待て! やめろ! そういう緊迫した雰囲気はもういらねぇ!」
いまにも腹を捌いてお詫びを、とでも言い出しそうな田島の言葉を、天希は両手で制する。しかし彼は一向に頭を上げようとはしなかった。
隣の成治が不憫なほど心配していて、逆に申し訳なさが湧いた。
「というか、二人は悪くねぇだろ。俺が勝手に二人の傍を離れたんだし」
「いえ、二ノ宮さんに新庄さんを任されていたのに、目を離した自分の責任です」
「だからそれは!」
頑なな田島の様子に天希は言葉が続かない。彼が頭を上げられないのは致し方ないことだ。自分の責務を忘れて、成治に気を取られてしまったのだから。
だとしてもそれを責められるわけがない。あんなに楽しそうな成治の顔を見たら、無下にはできないだろう。
「伊上、なんとか言え!」
「なぜ? どうして僕が、田島に言葉をかけてやる必要があるんだい?」
「それは、その」
伊上が顔を上げろと言えば上げるはずだ。しかし彼が言うように、それは御門違いというもの。彼は田島を責めても許される立場であり、言い訳を許してあげる必要はない。
顔には出さないが、まだ苛立ちを抱えているはずで、天希も許してやれよ、とは口が裂けても言えない。
こんな状況で、田島が半殺しの目に遭っていないのは、奇跡だとさえ思う。ということは、それなりに伊上の酌量があったことを意味する。
これ以上、彼に許しを求めることはできない。
「もういい。田島、顔を上げろ」
沈黙が続いてどれほどか。いつまでも田島が畳に額を擦りつけていると、しゃがれた低音が響く。
「聞こえなかったか?」
「いえ」
再び声が響くと、田島はゆっくりと頭を上げる。その背後には着物姿の志築が、腕組みをして立っていた。彼は口にくわえた煙草をつまむと、細く息を吐き出す。
「まったく、とんだトラブルメーカーを持ち込んでくれたな」
「いい機会だから、僕は足を洗おうかな」
「くそ面白くない冗談だな」
苛立ったように舌打ちした志築にも、伊上はどこ吹く風だ。天希を強く抱きしめて、髪に頬ずりしてくる。
その様子にため息を吐いた親分に、田島は無言のまま携帯灰皿を差し出した。そこに灰を落とし、志築はまた煙を立ち上らせる。
「お前たちは帰れ。俺はもう疲れた。まったく、桂崎さんまで動かす羽目になるなんてな。あの人には明日謝罪に行く。伊上、忘れずに手土産持参で来い。田島の処分はそのあと決める」
「えっ? ちょ、処分って」
「なんだ? 自分の持ち物をどう扱おうが俺の勝手だ。子供が口出すことじゃない」
「だ、だけど」
「あまちゃん、帰ろうか」
「伊上!」
「これは僕たちの領分じゃないよ」
立ち上がった恋人をすがるように見るが、冷静な言葉が返ってくる。言われる通り、他人の自分が首を突っ込むことではない。
それでも天希は、不安そうな顔をする成治が気になって、なかなか立ち上がることができなかった。
「あまちゃん」
「……うん」
伊上の手に促されてその場を立つと、成治と目を合わせられないまま、天希は部屋を出た。だがとぼとぼと恋人の背中についていけば、廊下の途中でそれにぶつかる。
驚いて顔を持ち上げたら、振り向いた伊上に覗き込まれて、天希は訳もわからず首を傾げた。
「いが、み……っ」
自分を見つめる瞳を見つめ返すと、ふいに顔が近づき、唇を塞がれる。その先を想像していた天希は身構えるが、やんわりと触れただけで離れていく。
「怖い思いを、させたね」
「え? あっ、大丈夫だ。俺、わりと図太いし」
「この先、同じことが起きても、同じ台詞を言える?」
「……言える、よ。それに、あんたが守ってくれるんじゃなかったのかよ」
考えなしの言葉だったけれど、きっと同じことが起きても、目の前の男を見捨てることはできそうにない。そっと手を伸ばして、天希は切なげな目をする恋人を引き寄せた。
首に腕を回して抱きつけば、伸ばされた腕にきつく抱きすくめられる。
「そう、だったね」
「忘れんなよ」
「ごめん」
珍しく恋人が弱っているのが感じられる。怖い思いをさせられたのは天希だけれど、それ以上に恐ろしい思いをしたのは、きっと彼のほうだ。
「早く帰って仕切り直そうぜ」
「ん?」
「今日はあんたの誕生日だぞ」
「忘れてたよ」
「だと思った」
思わずふっと息を吐くように笑えば、つられたように伊上も笑みをこぼした。その顔がなぜだか可愛く思えて、天希は両頬を包んで唇にキスをする。
ついばむように触れて、口づけを何度も繰り返せば、彼は天希の身体を抱き上げた。
「な、なんだよ。いきなり」
「早く帰ろう。あまちゃんが食べたい」
「飯が先じゃねぇの?」
「それよりも先」
「日付が変わっちまう」
「寝るまでは今日だよ」
「なんだそれ! 子供か!」
途端にウキウキした表情を浮かべる恋人に呆れる。とはいえ重たくなった空気が払拭されて、ほっとした気持ちにもなった。
これから先、なにが起こるかなんて、想像もつかない。助けに来る彼が運良く間に合うとも限らない。
それでも別れるという選択肢が、一ミリも心に浮かんでこなかった。
「あんまりあんたに、迷惑かけないようにするな」
「急に、どうしたの?」
「ううん、なんでもねぇ」
「あまちゃんは、あまちゃんらしくいてくれさえすれば良いよ」
屋敷の前に出ると、止まっていたのはいつもの車ではなかった。出会ってから今日まで、伊上が自分以外の車に乗るところを見たことがない。
驚きつつ後部座席に乗り込めば、彼は隣で少し重たいため息を吐き出した。
「篠原がせっかくのゴールドが剥奪されるから、やめておけって譲らなくてね」
「……っ」
意外すぎる理由に、思わず天希は吹き出す。すると運転席にいた、側仕えの篠原と目が合った。涼しげな目元が印象的な男前だ。
彼は小さく嘆息して、エンジンをかける。
「車をぶつけられても壊されても、面倒ですからね」
「よく言うよ。お前の速度制限を無視した運転もなかなかすごかったよ」
「あなたの形相のほうがよほどすごかったですよ」
「……っ、やめろ、二人とも、……笑えて泣けてくる」
バックミラー越しに睨み合う二人に、天希は笑いが止まらなくなった。
自分が大きな原因とは言え、いつも飄々とした人間が、子供みたいにいがみ合う姿を見ると、失礼ながら腹が痛くなる。
涙が出るほど笑い転げると、空気が和らぎ、二人がかすかに笑ったのを感じた。
「あまちゃんは、愛されてるね」
「そうか? あんた一人に愛されてれば、俺は十分だけど?」
「君は僕を喜ばせるの得意だね」
「ちょ、ちょっと待て、車の中で変なことすんな」
「両手が空いてるのって、こういう時にいいね」
軽々と天希を膝に乗せた伊上は、口元をにやつかせながら腰を撫でてくる。さらにはシャツの隙間に手を忍ばせて、無遠慮に脇腹を撫でた。
成治にシャツを借りたので、あられもない格好ではないが、これではあっという間に脱がされる。
「大丈夫だよ、篠原からは見えないから」
「そういう問題じゃねぇ! ここで変なことしたら、もうなにもさせないからな!」
「それは困るな。じゃあ、キスしてごらん」
「う、まあ、……そのくらいなら」
ひどく言葉に流されている気もしたが、恋人に熱を灯らせた目で見つめられれば、許してしまいたくもなる。
おずおずと顔を寄せた天希は、小さなリップ音を立てて彼の唇に触れた。
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