42 / 44

第3話 子猫VS.獅子

 食後のお茶を堪能したあと、二人で手早く風呂を済ませた。  二ノ宮の客風呂は旅館と見紛うほどの内装で、体の大きな天希と伊上が一緒に入っても、ゆったりした広さだった。  身近で温泉気分に浸れるなら、たまに泊まってもいいなどと思ったくらいだ。  伊上に馴染みすぎているが良いのか。と、困った顔で笑われたけれど。 「お、お疲れさまです」  部屋へ戻るため、天希たちがのんびり廊下を歩いていたら、ふすまの前で立ち尽くしている人物が目に留まった。  年若い青年で、最近になって二ノ宮にやって来たらしい。  天希とあまり年が変わらず、普段はわりと気さくに話してくれる。  今日も屋敷に着いて最初に声をかけてくれた。  そんな彼は天希と視線が合い、少しほっとした表情を浮かべた。――けれど、瞬く間に背筋を伸ばす。  天希の一歩後ろに伊上が立っていたからだ。挨拶した声があからさまに緊張を帯びている。  新入りからしてみれば、伊上は滅多に顔を合わすことのない存在。この反応は致し方ない。 「あっ、雪丸を連れてきてくれたんだな」  空気を読んで、天希は近寄りすぎない距離まで彼に歩み寄る。  下手にいつもの調子で近づくと、温まった体がブリザードで冷える可能性があるのだ。  なにごとも揺らがない伊上。一点、天希に対してだけは譲れない一線があるらしい。  簡単に言えば、極度の嫉妬深さを見せる。 「そろそろ食事も終わった頃だと、思ったので」 「わざわざ悪いな、ありがとう」  右手に持った子猫用のキャリーへ天希が手を伸ばしたら、彼は両手で差し出してきた。  普段の気さくさが鳴りをひそめた姿に、天希は苦笑を口元に滲ませるが、彼のためには他人の距離が良いのだ。 「にゃー」  天希の声で存在に気づいた雪丸は、キャリーについた扉をカリカリと小さな爪で掻き始める。  扉を開けば、そのまま腕をよじ登り、天希の肩へと移動してきた。  小さいうちはいいが、大きくなってこの癖が抜けなかった場合、肩こりに悩まされそうだ。  暢気に肩で顔を洗っている雪丸の姿に、天希は諦めの息をついた。 「あまちゃん、彼と仲がいいでしょう?」 「なに? 嫉妬か? 適切な距離だったろう?」  足早に去って行った、くだんの彼が廊下の角を曲がったところで、天希は後ろから伸びてきた指に顎をすくわれた。  わかりやすく距離を取った行動が、逆に普段の親密さを彷彿とさせたのかもしれない。  ふいのキスを受け止めながら、天希は無意識に唇が歪むのを止められない。  誰もが口を揃えて彼は完璧だ、と言わしめる伊上の嫉妬を受けるのは、自分だけ――優越感を覚えて天希は胸が満たされる。 「んっ、伊上、いつまですんの?」 「嫌なの?」 「嫌じゃねぇけど……雪丸が」 「お邪魔な猫だね」  天希と伊上が口づけているあいだ、隙間に頭を突っ込もうとして、雪丸はずっとうにゃうにゃ言っていた。  子猫特有の柔らかい毛並みがくすぐったくて、小さな頭が可愛くて、天希は限界だ。  伊上につまみ上げられた雪丸は、小さく「にゃ、にゃ」となにか文句を言っているように感じた。  しかし残念ながらその姿は、どう見ても大獅子に立ち向かうただの子猫で、到底敵わないのが目に見える。 「伊上に似てるから、俺のこと大好きなんだよな」 「あまちゃん、それよく言うね。似てるって」  わずかに不満の色を見せた瞳と、しわの寄った眉間。  不服だと言わんばかりの伊上の表情を見て、天希はにひひっと笑う。 「だって色合いも性格も似てるだろ?」 「色だけでしょ」 「性格も似てるって。寂しがりで甘えん坊で、俺のことが大好きなところ、そっくり」  一緒に眠っていると、深夜に天希がベッドを出ただけで、伊上はすぐ目を覚ます。  そして必ずTシャツの裾をくんと引っ張ってくるのだ。  どこへ行くのかという、無言の問いに、天希はキスとともに返事をするのが常だった。  おそらく伊上は無意識なのだろうと思う。  けれど幼いそんな仕草が愛おしくて、少し切なくて、天希は毎度急いでベッドへ戻る。  そうするといつでも、ぎゅっと強く抱きしめられた。  ずっと隣に、傍にいられたらいい。ちらりと天希の心をかすめる想いがある。  本当は孤独が好きではない彼。  近づくほどに気づいてしまうのだが、天希はなるべく口にしないようにしていた。  こうして茶化して言うのが精一杯。伊上の過去にどんな背景があるのか、無闇に覗いてはいけない気がしている。  きっとそれが、彼と長く一緒にいるための絶対条件。  伊上が自分から口を開くまでは聞いてはいけない。天希が勝手に足を突っ込むと、余計なフォローが必要になる可能性がある。 (好奇心は猫をも殺す、なんて言葉があるもんな) 「ふぅん。でもそんなあまちゃん大好きな僕を、今夜、君は甘やかしてくれないんでしょう?」 「うっ、ほら、甘えん坊が二人もいたら手に余るだろ」  伊上の手につまみ上げられていた雪丸を救出し、柔らかい毛を堪能していたら、不満げな眼差しが天希へ向けられる。  小さな子猫も例外なく、嫉妬する伊上は可愛いけれど、あまり機嫌を損ねるのもよくない。 「代わりにしてほしいことがあればする」 「なんでも?」 「度合いに、よる」  ここは胸を張って〝なんでも〟と言いたいところだが、伊上には禁句だろう。  なにをおねだりされるかわからない。 「そうだなぁ」 「…………」 「膝枕とか?」 「へ? そんなのでいいのか?」  伊上が悩ましく眉を寄せたので、固唾を飲んでいた天希は、あまりにありきたりなおねだりで呆気にとられる。  ついあからさまにぽかんとしてしまい、小さく笑われた。 「簡単すぎる? じゃあ、そのあいだは僕だけのことを考えて」 「あっ……まあ、いいか。あんたの気が済むまで?」  少々、伊上の手管に引っかかった気もしたけれど、可愛いものだ。  察しの良い天希の返事を聞き、伊上も機嫌良さそうに笑う。 「とりあえず三十分」 「オーケー、いいぞ」  いつまでも廊下に立っていても仕方ないので、天希はふすまを開いて部屋の中へ足を踏み入れる。  いつもの居間があり、そこを通り抜けてさらにふすまを開けば、二組の布団が敷かれた今夜の寝床があった。  雪丸のキャリーを床に置き、彼は備え付けのケージに入れる。  三段の背の高い立派なものなので、三十分くらいなんてことはないだろう。  こちらにも少々不満な顔をされたが、天希の優先順位はどうしても伊上なのだ。  これには自身でも驚くほどで、どんな窮地のときも、とっさに手を伸ばすのは彼へだと確信があった。 「よーし、来い」  布団の片方へ腰を下ろし、天希はバンバンと自身の太ももを叩いた。  あっけらかんとした行動に、伊上の目が一瞬丸くなる。しかしすぐに笑みを浮かべて近づいてきた。  風呂上がりなのでお互いラフな格好。  Tシャツにスウェット。伊上の髪も撫でるとサラサラとする。 「貴重なあんたのプライベート、ほかのやつに見られちまったな」 「なに? 嫉妬?」 「……うん」  自身が口にした言葉をそっくりそのまま返されるけれど、天希は素直に頷いた。  膝の上に頭を乗せて、くつろぐ伊上の髪を何度も撫でながら、少しだけ口の先が尖る。 「俺の特権だったのに。……まあ、篠原さんは見てるだろうけど」 「アレを数に入れなくていいよ」 「それくらい信頼してるって意味か?」 「ふふっ、今度はアレにも嫉妬?」  伊上の側仕えである篠原は秘書のような立ち位置。  もう二十年くらい付き合いがあるとかで、いまの世界に伊上が立った時から隣にいるらしかった。  別段、天希は篠原の立ち位置が羨ましく思わない。  相棒のような存在になりたいわけではないからだ。望むのは人生のパートナーとして、寄り添い生きていくこと。 「篠原さんに嫉妬するのは馬鹿馬鹿しい、けど。……俺は」 「ん?」 「なんでもねぇ。ただあんたを独り占めしたいだけだ」 「そう」  言い淀んだ言葉をどう捉えたのか。伊上は小さく呟いたあと目を閉じた。  この中途半端な言葉が、のちに大きな誤解へと繋がるなど、天希は思いも寄らなかった。 「あまちゃん、就職活動は?」 「え? あー、芳しくねぇなぁ」 「どこか紹介してあげようか? 組に関係ないところにもツテはあるよ」 「もうちょっと頑張る」 「あまちゃんは、頑張り屋だよね」  なぜ急に就職の話題が伊上の口から出たのか。わからぬまま天希は返事をしてしまった。  ふっとまぶたを持ち上げた、伊上が浮かべる微かな笑みに、天希はただ目を瞬かせる。 「伊上?」 「少し眠ってもいいかな?」 「おう、いくらでも」 「足が痛くなったら避けて」 「俺、正座わりと平気だから。大丈夫だ」  足を崩すなんて真似をしたら、伊上は一瞬で目が覚める。  再び閉じられたまぶたをしばし見つめてから、天希は布団に掛けられていたタオルケットを引き寄せた。

ともだちにシェアしよう!