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第3話 子猫VS.獅子
食後のお茶を堪能したあと、二人で手早く風呂を済ませた。
二ノ宮の客風呂は旅館と見紛うほどの内装で、体の大きな天希と伊上が一緒に入っても、ゆったりした広さだった。
身近で温泉気分に浸れるなら、たまに泊まってもいいなどと思ったくらいだ。
伊上に馴染みすぎているが良いのか。と、困った顔で笑われたけれど。
「お、お疲れさまです」
部屋へ戻るため、天希たちがのんびり廊下を歩いていたら、ふすまの前で立ち尽くしている人物が目に留まった。
年若い青年で、最近になって二ノ宮にやって来たらしい。
天希とあまり年が変わらず、普段はわりと気さくに話してくれる。
今日も屋敷に着いて最初に声をかけてくれた。
そんな彼は天希と視線が合い、少しほっとした表情を浮かべた。――けれど、瞬く間に背筋を伸ばす。
天希の一歩後ろに伊上が立っていたからだ。挨拶した声があからさまに緊張を帯びている。
新入りからしてみれば、伊上は滅多に顔を合わすことのない存在。この反応は致し方ない。
「あっ、雪丸を連れてきてくれたんだな」
空気を読んで、天希は近寄りすぎない距離まで彼に歩み寄る。
下手にいつもの調子で近づくと、温まった体がブリザードで冷える可能性があるのだ。
なにごとも揺らがない伊上。一点、天希に対してだけは譲れない一線があるらしい。
簡単に言えば、極度の嫉妬深さを見せる。
「そろそろ食事も終わった頃だと、思ったので」
「わざわざ悪いな、ありがとう」
右手に持った子猫用のキャリーへ天希が手を伸ばしたら、彼は両手で差し出してきた。
普段の気さくさが鳴りをひそめた姿に、天希は苦笑を口元に滲ませるが、彼のためには他人の距離が良いのだ。
「にゃー」
天希の声で存在に気づいた雪丸は、キャリーについた扉をカリカリと小さな爪で掻き始める。
扉を開けば、そのまま腕をよじ登り、天希の肩へと移動してきた。
小さいうちはいいが、大きくなってこの癖が抜けなかった場合、肩こりに悩まされそうだ。
暢気に肩で顔を洗っている雪丸の姿に、天希は諦めの息をついた。
「あまちゃん、彼と仲がいいでしょう?」
「なに? 嫉妬か? 適切な距離だったろう?」
足早に去って行った、くだんの彼が廊下の角を曲がったところで、天希は後ろから伸びてきた指に顎をすくわれた。
わかりやすく距離を取った行動が、逆に普段の親密さを彷彿とさせたのかもしれない。
ふいのキスを受け止めながら、天希は無意識に唇が歪むのを止められない。
誰もが口を揃えて彼は完璧だ、と言わしめる伊上の嫉妬を受けるのは、自分だけ――優越感を覚えて天希は胸が満たされる。
「んっ、伊上、いつまですんの?」
「嫌なの?」
「嫌じゃねぇけど……雪丸が」
「お邪魔な猫だね」
天希と伊上が口づけているあいだ、隙間に頭を突っ込もうとして、雪丸はずっとうにゃうにゃ言っていた。
子猫特有の柔らかい毛並みがくすぐったくて、小さな頭が可愛くて、天希は限界だ。
伊上につまみ上げられた雪丸は、小さく「にゃ、にゃ」となにか文句を言っているように感じた。
しかし残念ながらその姿は、どう見ても大獅子に立ち向かうただの子猫で、到底敵わないのが目に見える。
「伊上に似てるから、俺のこと大好きなんだよな」
「あまちゃん、それよく言うね。似てるって」
わずかに不満の色を見せた瞳と、しわの寄った眉間。
不服だと言わんばかりの伊上の表情を見て、天希はにひひっと笑う。
「だって色合いも性格も似てるだろ?」
「色だけでしょ」
「性格も似てるって。寂しがりで甘えん坊で、俺のことが大好きなところ、そっくり」
一緒に眠っていると、深夜に天希がベッドを出ただけで、伊上はすぐ目を覚ます。
そして必ずTシャツの裾をくんと引っ張ってくるのだ。
どこへ行くのかという、無言の問いに、天希はキスとともに返事をするのが常だった。
おそらく伊上は無意識なのだろうと思う。
けれど幼いそんな仕草が愛おしくて、少し切なくて、天希は毎度急いでベッドへ戻る。
そうするといつでも、ぎゅっと強く抱きしめられた。
ずっと隣に、傍にいられたらいい。ちらりと天希の心をかすめる想いがある。
本当は孤独が好きではない彼。
近づくほどに気づいてしまうのだが、天希はなるべく口にしないようにしていた。
こうして茶化して言うのが精一杯。伊上の過去にどんな背景があるのか、無闇に覗いてはいけない気がしている。
きっとそれが、彼と長く一緒にいるための絶対条件。
伊上が自分から口を開くまでは聞いてはいけない。天希が勝手に足を突っ込むと、余計なフォローが必要になる可能性がある。
(好奇心は猫をも殺す、なんて言葉があるもんな)
「ふぅん。でもそんなあまちゃん大好きな僕を、今夜、君は甘やかしてくれないんでしょう?」
「うっ、ほら、甘えん坊が二人もいたら手に余るだろ」
伊上の手につまみ上げられていた雪丸を救出し、柔らかい毛を堪能していたら、不満げな眼差しが天希へ向けられる。
小さな子猫も例外なく、嫉妬する伊上は可愛いけれど、あまり機嫌を損ねるのもよくない。
「代わりにしてほしいことがあればする」
「なんでも?」
「度合いに、よる」
ここは胸を張って〝なんでも〟と言いたいところだが、伊上には禁句だろう。
なにをおねだりされるかわからない。
「そうだなぁ」
「…………」
「膝枕とか?」
「へ? そんなのでいいのか?」
伊上が悩ましく眉を寄せたので、固唾を飲んでいた天希は、あまりにありきたりなおねだりで呆気にとられる。
ついあからさまにぽかんとしてしまい、小さく笑われた。
「簡単すぎる? じゃあ、そのあいだは僕だけのことを考えて」
「あっ……まあ、いいか。あんたの気が済むまで?」
少々、伊上の手管に引っかかった気もしたけれど、可愛いものだ。
察しの良い天希の返事を聞き、伊上も機嫌良さそうに笑う。
「とりあえず三十分」
「オーケー、いいぞ」
いつまでも廊下に立っていても仕方ないので、天希はふすまを開いて部屋の中へ足を踏み入れる。
いつもの居間があり、そこを通り抜けてさらにふすまを開けば、二組の布団が敷かれた今夜の寝床があった。
雪丸のキャリーを床に置き、彼は備え付けのケージに入れる。
三段の背の高い立派なものなので、三十分くらいなんてことはないだろう。
こちらにも少々不満な顔をされたが、天希の優先順位はどうしても伊上なのだ。
これには自身でも驚くほどで、どんな窮地のときも、とっさに手を伸ばすのは彼へだと確信があった。
「よーし、来い」
布団の片方へ腰を下ろし、天希はバンバンと自身の太ももを叩いた。
あっけらかんとした行動に、伊上の目が一瞬丸くなる。しかしすぐに笑みを浮かべて近づいてきた。
風呂上がりなのでお互いラフな格好。
Tシャツにスウェット。伊上の髪も撫でるとサラサラとする。
「貴重なあんたのプライベート、ほかのやつに見られちまったな」
「なに? 嫉妬?」
「……うん」
自身が口にした言葉をそっくりそのまま返されるけれど、天希は素直に頷いた。
膝の上に頭を乗せて、くつろぐ伊上の髪を何度も撫でながら、少しだけ口の先が尖る。
「俺の特権だったのに。……まあ、篠原さんは見てるだろうけど」
「アレを数に入れなくていいよ」
「それくらい信頼してるって意味か?」
「ふふっ、今度はアレにも嫉妬?」
伊上の側仕えである篠原は秘書のような立ち位置。
もう二十年くらい付き合いがあるとかで、いまの世界に伊上が立った時から隣にいるらしかった。
別段、天希は篠原の立ち位置が羨ましく思わない。
相棒のような存在になりたいわけではないからだ。望むのは人生のパートナーとして、寄り添い生きていくこと。
「篠原さんに嫉妬するのは馬鹿馬鹿しい、けど。……俺は」
「ん?」
「なんでもねぇ。ただあんたを独り占めしたいだけだ」
「そう」
言い淀んだ言葉をどう捉えたのか。伊上は小さく呟いたあと目を閉じた。
この中途半端な言葉が、のちに大きな誤解へと繋がるなど、天希は思いも寄らなかった。
「あまちゃん、就職活動は?」
「え? あー、芳しくねぇなぁ」
「どこか紹介してあげようか? 組に関係ないところにもツテはあるよ」
「もうちょっと頑張る」
「あまちゃんは、頑張り屋だよね」
なぜ急に就職の話題が伊上の口から出たのか。わからぬまま天希は返事をしてしまった。
ふっとまぶたを持ち上げた、伊上が浮かべる微かな笑みに、天希はただ目を瞬かせる。
「伊上?」
「少し眠ってもいいかな?」
「おう、いくらでも」
「足が痛くなったら避けて」
「俺、正座わりと平気だから。大丈夫だ」
足を崩すなんて真似をしたら、伊上は一瞬で目が覚める。
再び閉じられたまぶたをしばし見つめてから、天希は布団に掛けられていたタオルケットを引き寄せた。
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