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体育祭編『第32話』

「まあ、うちに来るまでまだ数年の猶予があるからな。それまでに少しずつ慣れて行けばいいさ」 「……そうですかね」 「そうだって。夏樹、頑張り屋だからこんなもんコツさえ掴めばすぐ覚えられるさ。……ほら、綺麗になったぞ」  ピカピカのフライパンを渡され、夏樹はじっとそれを見つめた。その重さがズシリと手に響いた。 (なんだか思った以上に大変そうだな……)  いきなり全部は無理だから、少しずつ身につけていこう。  かつては運動大嫌いだったし(というか、今でもあまり好きじゃない)、身体もものすごく硬かったが、毎晩ストレッチし続けた結果、今ではちゃんと一八〇度開脚できるようになった。  必要に迫られれば、人間は意外と頑張れるものだ。 「それより夏樹、明日体育祭だよな? 俺もこっそり見に行くから、頑張れよ!」 「え? 先生も来るんですか?」 「当たり前じゃないか。夏樹が騎馬戦の上で戦うんだろ? これを見なけりゃ男じゃない!」 「そんなに面白い見世物じゃないでしょ。というか先生、辞めたばかりの学校によく堂々と行けますね?」 「別にやましいことがあって辞めたわけじゃないからな。辞表を出す時は、実家の都合って言ってあったし。イベントの時に顔を出すくらい、問題ないと思うぞ」 「……あ、そ。まあ好きにしてください。でも大声で応援するのはやめてくださいよ? 恥ずかしいから」 「えー? せっかく夏樹への愛を叫ぼうと思ったのに……ぶふぉ!」  手にしたフライパンでパカンと殴りつけ、夏樹は何事もなかったようにキッチンを離れた。そして通学用の鞄を肩にかけ、自宅アパートを出ようとした。 「おっと夏樹、待て待て。忘れ物だ」  忘れ物なんてありませんよ……と振り返ろうとしたら、目の前で風呂敷に包まれたお弁当箱を差し出された。 「ほい、今日の弁当。夏樹に合わせて、見た目ちょい下手くそに作っておいたからな」 「……ありがとうございます。でも下手くそは余計です」  そう言いつつも、好きな人のお弁当を食べられるのは嬉しかった。  夏樹ははにかみながら、市川に背を向けた。 「じゃあ行ってきます」 「おう、行ってらっしゃい!」  市川が元気よく送り出してくれる。この他愛のないやり取りが一番好きかもしれない。

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