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体育祭編『第3話』

「…………」  思い返せば、この跳び箱がきっかけだった。去年の体育の実技試験で、自分一人だけ七段が飛べなくて、それで放課後市川に呼び出されて、それから……。  そんなことを思い出していたら、少しだけ涙が滲んできた。慌てて目をしばたたき、大きくひとつ息を吐く。 (先生がいてくれたらなぁ……)  最初は嫌いだった。体育の授業も、市川のことも。  でも今じゃ、一ヶ月会えないだけで寂しくなってしまう。つくづく自分は、あの変態教師に惚れているんだなと思う。  憎まれ口を叩いても、いつでも夏樹を受け止めてくれて、しつこいくらいの愛情を注いでくれた。あそこまで夏樹のことを愛してくれる人は、後にも先にも市川だけだろう……きっと。 (次に会えるの、夏休みになりそうだし)  七月まであと四ヶ月もある。受験勉強もあるからあまり色恋にうつつを抜かしている場合ではないが、精神的な影響があることは否定できない。  はあ……と深く溜息をついた時。 「おう夏樹、元気ないな。どうしたんだ?」 「……えっ?」  背後から市川の声が聞こえた。  空耳かな……と思って振り返ったら、まさかの人物が入口に立っていた。 「なんだ、一人で片づけしてるのか? 手伝ってくれる人いなかったのか?」 「市川先生!?」  なんで先生がこんなところに……と問うよりも先に、大きな手に口を塞がれてしまった。 「シーッ」と人差し指を唇に当て、至近距離からこんなことを言われる。 「あまり大声出すなよ。俺がここにいるって他の先生に知られたら、ちょっと面倒なんだ。一応辞職した身だからさ」  そしてピシャリと入口の扉を閉められ、内側から鍵をかけられた。これで体育倉庫には市川と夏樹の二人きりとなった。  緩んだ手を振り解き、夏樹はジロリと市川を見上げた。 「……先生、なんでいるんですか?」 「ん? 夏樹が『体育の授業、嫌だ』って叫んでたからさ。ちょっくら様子を見に来たわけよ」 「嘘つけ! そんな理由でわざわざ京都から東京まで来るわけないでしょ!」 「来るさ。俺は夏樹に会うためなら、例え火の中水の中なんだぜ?」  ……ここまでハッキリ言いきられると、逆にどう言い返していいものかわからなくなる。

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