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第6話 サマータイム
夏休み、坂下は律儀に登校していた。
一日も欠かすことなく、登校したその足でまっすぐ美術室を目指す。
美術室は独特な匂いがした。
テレピン油や絵の具の混ざった匂い。
同じ匂いは、隣の席の暁からも、時折かすかに匂っていた。
下級生が部活動に来るのは午後からだから、午前中は自由に使ってよいと言われ、美術室は坂下にとって格好の仮眠室となった。
学校までの道のりを、真夏の太陽は容赦なく照りつける。
じりじりと灼かれた皮膚に、リノリウムの床はひんやりと心地よく、坂下は鞄を枕代わりにしてごろりと横たわった。
掃除していないから汚い、と暁は言っていたが、坂下は気にしない。
朝の美術室は静かで、埃っぽい湿った空気は不思議と坂下を落ち着かせた。
坂下が惰眠を貪っていると、建てつけの悪い戸がガタガタと開き、聞きなれた足音が近づいてきた。
坂下はおぼろげな意識のなかで、自分に落とされた視線を感じる。
じっと自分の様子を伺う気配。
やがて、空気が動き出す。
相手は作業に入ったようだった。
荷物を置く音、本をめくるような音、鉛筆が紙をすべる音。
どれもが坂下には心地よい。
教室の喧騒の中で眠るのとは違う、深いゆったりとした眠りに漂うことができるのだった。
「坂下、おい、坂下。」
優しく髪に触れられる感触に坂下が顔を上げると、日焼けした暁の顔がのぞきこんでいた。
だらしなく開いたシャツの胸元から、野性的な汗の匂いがした。
開け放たれた窓から、蝉の鳴き声が喧しく聞こえてくる。
生温かくなった床の上で、いつの間にか坂下の身体もじっとりと汗ばんでいた。
「ああ、大野くん、おはよう、いつもご苦労さん。」
「まったくいい身分だよな、人を目覚まし代わりにしやがって。」
「へへ。」
誰にも邪魔されない、二人だけの時間が坂下にはうれしい。
「そうだ大野くん、来週の木曜日なんだけどさ、何の日か知ってる?」
「木曜?7日か。えー、なんだろ?まさか『ボクのお誕生日』とか言わねえよな?」
「あはは、言う言う。大当たり。」
「まじかよー。プレゼントよこせなんて言われても金ないぜ。」
「あんなにバイトしてるのに。じゃいいや、新しく描く絵をもらうって先約束で我慢する。」
「お前なあ…」
他愛もない話を続けているところで、ガタガタと耳障りな音を建てて美術室の戸が開いた。
「あ、どーも。」
もさもさ頭の中年男に、暁が軽く頭を下げる。
「なんだ、話し声がすると思ったら大野か。こんなところでどうした、3年生は引退だろ?」
「文化祭だけ何か作品だそうかなーって。」
「ほー、殊勝な心掛けだな。それより何だ、その髪の色は。」
「新学期始まったら直すって。いいじゃん、夏休みぐらいちょっと明るくしたって。先生こそ、部活は午後からじゃねーの?」
「俺だってな、いろいろ仕事あんのよ。ま、いいや、出てく時は片付けていけよ。」
「へいへい。」
ひらひらと手を振って去っていく後姿に、暁が気のない返事をする。
「今の、美術の先生?」
「ああ、顧問。」
「ふーん、そろそろバイト行かなくていいの?」
「あ、もうこんな時間か。あー、だりー。この暑さじゃ働く気しねえな。」
「サボっちゃえば?」
「サボりてえよ、まじ。」
しぶしぶ暁が立ち上がる。
「じゃーな。また明日。」
「うん。またね。」
素足にかかとを履きつぶした上靴を引っ掛け、暁が美術室を後にする。
後姿を見送りながら、坂下は一瞬追いかけたい衝動に駆られ、慌てて首を振った。
家に帰るまでの時間をこれから一人で過ごさなければならない。
無為に時間をつぶすことは、これまでの坂下にとって自分の一部のような習性のはずだった。
それがなぜか最近、坂下は自分の時間をもてあましていた。
暁がそばにいるとき、眠りは深く、時間は瞬く間に過ぎてゆく。
一人ぼっちの眠りは浅い。
不快な夢に追いかけられ、眠れども眠れども、一層疲労が増してゆく。
慣れていたはずの孤独に、坂下はふいに置き去りにされたような心許なさを覚える。
小さなため息がこぼれた。
夏の午後はとてつもなく長い。
制服についた埃を払い、坂下はのろのろと美術室を後にした。
木曜日、いつもと同じ時間に坂下は登校した。
坂下は滅多に何かに期待をすることはない。
期待したぶんだけ、失望も大きいことを知っているつもりだった。
自分の言ったことなど、きっと忘れているにちがいない。
何せ大野暁という人間は常に忙しいのだ。
坂下が床に寝転がって天井の染みを目で追っていると、暁が現れた。
「おーっす、ジジイになった気分はどうだ?」
「自分だって数ヵ月後にはジジイじゃん。」
開口一番の暴言に、坂下はむっとした顔で憎まれ口を叩くと、ごろりと寝返りを打って暁に背を向けた。
たかが誕生日を相手が覚えていたぐらいで、舞い上がっている自分が滑稽だった。
うれしさに紅潮して綻んでしまった顔など、気恥ずかしくて見せることが出来ない。
「まあ、そう拗ねるなって。年取ると僻みっぽくてやだねー。俺、昼間バイト空けてもらったから、一眠りしたら出かけようぜ。」
「え?!」
坂下は思わずガバリと跳ね起きた。
「これ、行かねえ?タダ券もらったんだ。」
暁の手にはなにやらチケットのようなものが握られている。
「なに?」
「知らねえ?新しく出来たアミューズメントパーク。いろいろ入ってるらしいし。」
「行く!行きたい!今すぐ行こう!」
坂下は興奮を隠すのも忘れ、叫んでいた。
「おい、寝なくていいのか?」
「行ってつまんなかったら寝る。」
「お前その性格はいくつになっても治りそうもないな。」
予想をはるかに超えた坂下のはしゃぎように、暁の顔にも満更でもないような笑みが浮かんだ。
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