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第九話 お福わけ
「わ! 大丈夫?」
不意に柔らかな感触が伝わる。
制服姿の男にどんと屈 んだ頭がぶつかってしまった。
それは綾瀬が棚に並ぶ本をざっと目を通しながら慣れない松葉杖をついて、肩ほどの本棚の前を歩いていたときだ。
「すみまっ……」
急いでぱっと顔を上げると、驚いた表情で首をかしげている晴斗が目と鼻の先にあった。
ここで惚れる綾瀬ではない。
綾瀬は堅物で質実剛健 を旨 とする童貞だ。朝は一歳の妹が釘付けになるFテレ、夜はニュース番組を嗜 むために国民放送にかじりつく漢 である。
「あ、綾瀬くん?」
「だれ?」
なんと! 綾瀬は隣席である晴斗の顔を覚えておらず、微塵 も記憶がまったく残っていなかった。それはそうだ。
容姿、身長、学力、風貌、すべてが並である晴斗はナナフシが枯葉のごとく擬態 し、教室の窓辺に溶け込んで誰の目にも止まらないでいたので納得である。
「ごめっ……! となりの席の鈴木って言うんだ。綾瀬くん、怪我したって聞いたから勝手に心配しててさ」
「ふーん。そう、ありがとう」
丁寧に自己紹介までして眼差しが慈愛に満ちた光を帯びる晴斗に対して、綾瀬は冷淡な視線を送る。どうせ、同情だ。たいして自分のことなど知りもしないくせに、今更なんだよ……。と眉を縮めて舌打ちをうつ綾瀬がいた。
過去へ遡 れるならば、綾瀬は「くっ、殺してくれ」と言い放ち、近くの分厚い辞書で頭をかち割っていた事案であるが、晴斗は嫌な顔一つせずに尚 も話しかける。
「明日から学校これるの?」
「いや、来週から」
綾瀬は一週間ほど学校を休んでおくことにした。体より気持ちの問題でだ。無愛想に視線を落としたまま、そっぽを向いて呟くと、晴斗は物憂げな表情で微笑んだ。
「そっか、残念だな……」
「別にいなくとも同じだろ。つうか、なにそれ? まんが?」
「え!?」
晴斗は一瞬赤くなって、すぐに蒼白 になる。綾瀬は気にもせず、じろじろと晴斗の片手にある本屋の袋に視線を巡らしていた。
「えっと、うん、漫画好きなんだ……」
「なに読んでんの?」
「え!?」
晴斗は背後にのけぞるほど驚いて、首の付け根から朱 を注いだように真っ赤になってしまうと、綾瀬はなんだよ、と思いながらぶすっと不機嫌な顔をした。
「そんな驚くことかよ? どうせ漫画だろ?」
「う、うん。ふ、普通の奴かな?」
「ちっ! 一体なんだよ! さっさと教えろよ!」
綾瀬は晴斗の回りくどい言い方に、歯がゆいほどの苛立ちが声に混じって怒鳴ってしまう。周囲の客がじろじろと二人に冷ややかな視線を投げつけた。
親しい友人達は腫れ物に触れるように遠巻きになって口をつぐみ、医者からは戦力外通告を言い渡された。
初めての疎外感。綾瀬は不安と焦燥という尖った気持ちを誰かにぶつけてしまいたかった。いま思うと身震いするほど忌々しい記憶である。
「綾瀬くん、ごめん。し、少年漫画なんだ。ほら、バスケの……」
晴斗は慌てふためいて、脇に抱えていた袋からコミックスを一冊とりだし、機嫌の悪い綾瀬にみせた。他にも何冊か袋にあるが表紙が暗くて見えない。
目の前に映ったのは、随分前に流行ったバスケ漫画だった。確か、三十一巻まで続いて連載はとっくの昔に終えている。
「面白い?」
「え!?」
「どうせ一週間ひまだから、読んでやるよ」
幾度と振り返っても、綾瀬的にマイナス一万点の最悪な第一印象である。すっかり綾瀬は平凡受に絡むモブヤンキーと化していた。モブヤンキーは印象に残るが、最低な立ち位置だ。大概、モブレまでいって攻様に殺されるオチである。
このとき、未 だピンクのシクラメンのような恋心は芽生えていない。綾瀬は晴斗からそのコミックを奪いとってレジへ足を運ぼうとしたが、松葉杖を両脇に抱えている。晴斗は視線を落とし、吐息のようなつぶやきを洩らした。
「会計もすんでるし、……もし、良かったら貸そうか?」
「は?」
「ここから僕の家近いんだ」
どうせすることはない。家に帰れば、一歳児用の絵本「ぶーたんのブー」など数冊しかない。「ぶーたんのブー」は五ページほどで読み終えてしまう。
こうして、綾瀬は渋りながらも、晴斗から全巻を借りて家までは晴斗の家からタクシーで帰り、一週間を読書にて過ごすことに決めた。
なお、この数週間後に、晴斗のスリーサイズ、弁当の中身、読んでいる漫画などすべてのデータを躍起になって調べ回り、狂弄 するなど本人はまだ夢にすら浮かんでこない。
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